三一独立宣言書は何を目指したのか?

三月一日は韓国では三一節と呼ばれる祝祭日である。1919年3月1日に起きた日本からの独立運動を記念する日である。日本の支配下にある民族の自主独立を唱える独立宣言書のもと、多くの市民が一斉に京城(現ソウル)の街頭へ繰出し、独立万歳を叫びながらデモを繰り広げた。この日を契機にデモは朝鮮全土に拡散した。日本では万歳事件や朝鮮騒擾事件とも呼ばれた。このことの大きな起爆剤となったのは前年1918年の米国大統領ウィルソンにより提唱された14か条の平和原則である。この中で謳われた民族自決の原則に喚起され、民族自決、自主独立の気運が高まり、独立宣言書が起草されたことによる運動が三一独立運動といわれている。この三一独立宣言書は過激なものではなく、むしろ沈着で格調高い文言で綴られている。運動がなぜ3月1日に始まったかといえば、この年1月に亡くなった李氏朝鮮第26代国王(大韓帝国初代皇帝)高宗の葬儀が3月3日に予定され、高宗の葬儀に参列すべく全国各地から多くの国民が首都京城に集まっていたからといわれている。運動の推進者たちは、この機会に民族の自主独立を訴えるために3月1日を期して運動を始めたのである。運動は数か月続くが収束していく。第二次世界大戦後、大韓民国建国後は8月15日の日本統治から解放された日とともに3月1日は韓国の祝祭日と定められ、現在の韓国にとって三一節は大きな意味をもつ日となっている。

筆者はこの三一独立宣言書を何度も読み返しながら、長年素朴な疑問、問いを持ち続けてきた。書かれている趣旨や独立を希求する国民の熱い思いは充分過ぎるほど伝わって来る。しかし筆者の素朴な問いというのは、独立を勝ち取ったとしたら、その後の国の姿、政治体制をどうしたい、どうありたいと考えていたのだろうかということであった。時代は第一次世界大戦を挟んで、ロシアでは専制国家が斃れ社会主義国となり、世界各地で自主独立国家への歩みが拡がっていた時期である。そんな機運の中での三一独立宣言であるから同じ機運が朝鮮で盛り上がってもなんの不思議もないことだ。そこまでは何の疑問も湧かないが、独立宣言書の中に運動を通して、あるいは運動後にどんな政治体制を構築しようとするのかが書かれていない。日本の幕末の倒幕運動からは明治新政府への移行に際しては天皇親政という明確な指針があり、それが新政府になってからの[五箇条の御誓文]という形で新国家体制を謳い上げていたが、これに匹敵するものが三一独立宣言書やその周辺のどこにも見当たらないのはなぜだろうという疑問である。歴史の碩学の士に教えを請いたく思う。ただ筆者の浅はかな見立てでは独立宣言書にはなにもヒントになるような事柄はないが、3月1日という日に注目している。独立宣言がなされた日は只単に多くの国民群衆にアピールできるという理由だけではなく、運動の推進者、扇動者たちの思いは1910年の韓国併合時の国王である純宗を押し立てての朝鮮朝復活が念頭にあり、国民の大多数に大韓帝国復活への暗黙の共通認識があったが故の3月1日の独立宣言だったのではないか、だから敢えて独立後の指針を書き示す必要がなかったのではないかと思っている。緩やかな改革は必要だか国王を中心とした両班(貴族階級)主体社会に変わりはない、それくらいしか浅学な筆者には思い当たるものがない。是非教えを請いたい。朝鮮国民の幾分かには国王を戴く体制に馴染んでいたとすれば、戦後の北朝鮮の体制にも納得がいく。金日成から始まる金王朝?を3代に亘って皇帝のような存在を容認しているのもどこか納得がいく。否定や批判の見解や声を聞かせていただければ有難い(洋一)

               

1件のコメント 追加

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中