6月25日が歴史上何が起きた日なのかを咄嗟に思い浮かべることのできる人はきわめて少ないのではないだろうか。72年前の朝鮮半島で分断されている緯度38度線を挟んで、韓国と北朝鮮の同胞相撃つ朝鮮戦争が勃発した日である。第2次世界大戦後の米ソ冷戦構造の代理戦争の様相を呈し、3年の長きに亘った戦いは、現在まで休戦状態のままで対立が続いている。朝鮮戦争時米軍の兵站基地となった日本は、戦争特需の恩恵に浴し、太平洋戦争後の復興の大きな契機となり、80年代には経済大国とまでいわれる国になったきっかけの要因の1つがこの戦争である。しかし米軍兵站基地となった日本にとって必ずしもいいことばかりであったとは言い切れないのではないか。
松本清張の小説「黒地の絵」を改めて手にしてみた。この作品は朝鮮戦争初期に九州・小倉(現北九州市小倉北区)で起きた米国軍人、それも主に黒人兵による集団脱走と民間人暴行事件を題材とした小説である。黒地は黒人兵の肌の色、絵は彼らの刺青を指している。朝鮮戦争に派兵される直前の米軍黒人兵約200人は、夜間米軍キャンプ兵舎から集団脱走し、近隣の民家を襲い、あちこちの家々で乱暴狼藉、婦女暴行に及んだ実際の事件を虚実取り混ぜて松本清張は一篇の小説に仕上げている。しかしこれだけ大きな重大犯罪事件だったにもかかわらず米軍と日本占領最高機関のGHQ(連合軍最高司令官総司令部)は、一地方での些細な出来事として隠密裡に曖昧なままで事件解決の処理を図っている。それゆえにこの事件が世に出ることはなかった。松本清張は、何故これほどの大がかりな事件が問題にされなかったのか一方通行の権力者の横暴を小説という手段を用いて後年明らかにしたのである。権力を持つ者が弱者の口を塞ぐような理不尽を松本清張は許せなかったのであろう。
日本占領の最高機関であったGHQは平和憲法という名のもとに帝国日本を換骨奪胎にする憲法を敗戦国に強いて、米国の意のままになる国を創ろうとしたのである。その方法とは1億総懺悔の国、自虐史観に満ちた国を創り上げることだったのだろうか。それが現在に至るわが国なのである。その中でもGHQが目論んだ国の体制を無批判に受け入れたのは新聞を中心とする報道機関と教育界だったのではないだろうか。そして現代に至ってもなお、その呪縛から解放されていないのが多くの新聞社であり左派知識人であり、教育機関などに関わる多くの人士である。呪縛の解けない左派人士の分かり易い事例を見つけた。いま行われている参議院選挙の社民党の選挙公約である。見事なまでの時代錯誤な公約に声を上げて笑ってしまった。
1951年(昭和26年)に連合国と日本の間に締結されたサンフランシスコ講和条約をもって日本は表面上、形式上は主権回復の完全な独立国となったが果たして真に独立国となったのであろうか。実質は米国の掌(たなごころ)の上で踊らされているのではないかと、松本清張は自問して書いたのが「黒地の絵」だったのではないかと筆者は思っている。
米国の核の傘。これこそが米国の占領期を未だに脱していないということを意味している。戦後ずっと米国の顔色を窺い、米国の意向に沿った体制、政治を維持することを「正」としてきたということだ。そしてそれは日本に限らなかった。韓国もしかりである。こんにちに至って日韓間の諸問題(慰安婦だったり徴用工問題だったり)の根っこには常に米国の意向が働き続けたことによる、即ち日韓両国が共に真の独立国たり得ていないことにより日韓だけで問題を解決できないジレンマがあるように思えるが、いかがなものであろうか。いま日韓両国が真の主権国家となってこそ真の国交回復がなされ、対等で相互に尊重し合える関係を築くことが可能なのではないだろうか。両国を鳥瞰的、大局的に眺めることができれば、いまある諸々のいがみ合いや相互不信が些末なことにさえ思えてくるような気がする。分かり合える関係になれるかどうかは偏に真の独立国、主権国家としての日韓両国の器量に掛かっていると考えている。筆者としては、それでは日本はどうあるべきかは、また別に一項を設けて書いてみたいと思っている。(洋一)
6.25(육이오 ユギオ、朝鮮戦争)勃発(北朝鮮・金日成キムイルソンが中共・毛沢東の了解を得て韓国に侵略したとされている)の1950年から72年、筆者が云うようにその戦争は未だに終結していない。欧米諸国は極東の一角の戦争にはさほど関心がないのだ。僕は東京タワーを見るたびにこの戦争を思い出す。タワーの鉄骨の大部分は朝鮮戦争に投入された米軍戦車の鉄塊でできているからだ。
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