二・八独立宣言なんて誰も知らない?

二・八独立宣言に思いを馳せながら考えたこと。この運動の集会と独立宣言が1919年2月8日であったことから二・八独立宣言と呼ばれている。すでに作家としてある程度名をなしていた李光洙(注Wikipedia李光洙の項)の草案による宣言書である。第一次世界大戦後アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決主義」に喚起された在日朝鮮人留学生たちは、日本に併合されている祖国の自立、独立を目指して立ち上がったのである。この留学生たちの活動の経緯については、愚作「マグノリアが咲くまでに」と「こすもぽりたん残夢(その1)」で描写している。一読願えればと思う。

1919年の2月から3月にかけての朝鮮は、後世まで語り継がれる独立運動の季節となった。舞台の発端となった場所は東京・西神田にあった在日本東京朝鮮YMCA会館である。祖国朝鮮の自主独立、国権回復を求め、訴える独立宣言書は日本語、英語にも翻訳され、日本政府や在日本外国公使館、新聞各紙にも広くアピールするものとなった。宣言文は当然のように祖国へももたらされ、これをきっかけに朝鮮での独立運動の大きなうねりの呼び水となったのである。東京留学生たちの行動力が民族全体を動かしたのである。この行動力は現代まで続く大々的な民族運動の嚆矢とも呼べるものだ。しかも中国の五・四運動への足掛かりともなった。しかし留学生たちの誰一人として戦後(韓国では「解放」という)の新生国家の指導的役割に名を留める者がいないというのはどうしたことだろうとも思う。戦後の混乱の中で元留学生たちは忘れ去られていったのだろうか。権謀術数に長けた人間しか勝者や権力者になれない、そんなことは年齢を重ねるまで気づかされることはない。若さゆえにただひたすら思い描いた理想に向かって突き進み、そして理想は無残に崩れ落ちてゆく。三・一独立宣言文やその基になった二・八宣言書は、反日的表現を抑えた冷静で格調高い文章であるが、当時では知識人たる学生らしい才気走った観念的な文章と言えなくもない。

現代の日韓間に横たわる種々の問題・対立の源を、100年以前まで遡って考えてみようと思う。〈徴用工問題、慰安婦問題の個人補償はなんら解決していない〉というのが韓国側のスタンス、主張であり、〈すべて解決済みである〉が日本側の見解である。交わるところがない。そもそも文在寅政権は36年間の韓国併合を認めず、1910年の韓国併合条約は無効であるという立場で、さらに大韓民国の建国も1948年ではなく1919年であり、ゆえに朝鮮人は日本国民ではなかった、だから国民徴用令など適用されないとしている。筆者の見解では1919年を大韓民国の建国年とするのには矛盾することが多すぎると思っているが、ここではそのことに深入りせず別の機会に触れたい。ただ1919年という年は韓国にとっては歴史上重要な年で、反日的なあらゆる活動の象徴が三・一運動であり、後年韓国ではこの日を国の祝日にしている意味を、我々日本人はなにも韓国に忖度することはないが留学生たちの意図したことを銘記しておく必要はあるのではないだろうか。(洋一)

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