毎日利用する通勤電車など、どの電車でも目にする優先席ステッカー。日本語英語のほかに中国語簡体字表記と韓国語(ハングル)表記の案内になっている。その中で気になるのがハングル表記である。他の言語と違って”노약자석”は漢字表記すれば”老弱者席”となる。”老”は納得できるとして、引っ掛かるのは”弱者”である。
弱者という表現の意味やニュアンスが、韓国人とわれわれ日本人といささか違うのかもしれないが、ハンディキャップをもつ人たちからすると「我々は弱者ではない」と思ってもおかしくないのではないだろうか。イラスト入りのステッカーであるから、あえて”노약자석”と韓国語を入れる必要があるのだろうかと思ってしまうが、いかがなものだろうか。

現代の弱者とは
神田神保町駅ホームで考えもつかないような経験をした。午前の遅い時間帯で電車を待つ人もまばらだったが、40代半ばとおぼしき女性が筆者に近づいて話し掛けてきた。「運賃が足りないのです。200円ばかりいただけませんでしょうか?」悲壮な感じはなく淡々と話し掛けてきたのだ。「はぁ⁉️お金を恵んでくれですか? 駅員さんに言ったらどうです」 女性は何も言わず離れていったが、その後筆者と同年輩の男性が話し掛けてきた。
「お金をくれないかと言ってきたでしょう。私にも同じことを言って来たんです、もちろん断りましたよ。年配の男に何人も同じことを言ってるんですよ。どういう魂胆かわかりませんが、変な世の中ですよね」筆者は断ってよかったのかどうか、素直にそれくらいのお金ならと出してあげればよかったのかとも思ったが、咄嗟のことだったので良し悪しの判断もつかなかった。
あとになって女性はどんな環境にある人物なのかと興味が湧いた。仕事は?家庭は?知り合いは?貯えは?といくらでも疑問が湧いて来る。想像を逞しくすれば、ただカネがない、貧乏や貧困というのではないのかもしれなかった。昨今の就職環境からして契約社員や派遣社員、アルバイトなどの非正規職に就かざるを得ず、コロナ渦とも相俟って失業に追い込まれ、次の働き口も見つからず貧困に陥っているのかもしれないと想像を働かせた。
ただそれは貧乏かもしれないが、一概に弱者とはいえないのではないかと思った。貧乏だから弱者とはいえないはずだ。弱者とはどんな人をいうのか、また弱者には弱者のそれなりの理由があって弱者なのではないのだろうか。家族、身内との縁が切れ、友人知人も疎遠になり社会的な関係が絶縁状態でだれにも相談もできない、そんな境遇に追い込まれている人が弱者なのではと思う。孤立し、孤独感にさいなまれ弱者にさせられているというのが実情ではないだろうか。そんな人たちに対して世間では本人の自己責任、自業自得で片づけてしまいがちである。だがはたして自己責任とだけ一言でむげに言い切れるものだろうか。
運もあるかもしれないが、どうにもならない社会環境を余儀なくされた人たちこそ弱者にほかならない。自暴自棄になってしまうような環境をすべて自己責任によると突き放してしまうことはできないのではないか。”人を殺して死刑になりたい”となんの関係もない人たちを道連れにした電車内犯罪や、大阪のクリニック内に火を放った事件など、社会との紐帯が切れてしまった人間がなぜそんな犯行に及ぶのかに想像を巡らせなければならないのではと思う。勿論そんな人間を弁護するつもりなど毛頭ないのは当然だ。それでもそこまで追い詰められた人間だけを自己責任と簡単に片付けられないなにかがあるのではと思う。弱者を弱者たらしめているものは100%個人の資質によるとは筆者にはどうしても思えない。
どうにもならない弱者とは
筆者が思いつく弱者の最たる人々はタリバンに翻弄されるアフガニスタンの庶民、その中でも最たる弱者は子供である。家族が生き延びるために幼い子供を売るという悲惨さには目を覆ってしまう。政治や宗教という個人の力ではどうにもならない環境に置かれる人々こそ弱者なのではないだろうか。電車内の優先席のハングル表記を目にするたびに心がカサカサしたものにさせられている。(洋一)
追記:すでにご覧になった方々も多くおいでだと思いますが、2019年カンヌ国際映画祭の最高の賞パルムドール賞に輝いた韓国映画「パラサイト 半地下の家族」は、韓国ソウルの失業に喘ぐ약자(弱者)を描いたもので、是非観ておきたい作品である。現代韓国の格差社会を見事に切り取った傑作、まだの方にはお薦めの映画です。
映画 Parasite の主人公が「弱者」だとするならば、彼らは見せかけの「強者」になろうとして自滅した「弱者」でしょうね。
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韓国の格差社会をダイナミックに描いたいい映画でしたね。僕の中では小田急や京王線の中で起きた自暴自棄な事件の犯人たちの絶望感、心の闇がとても興味深いです。パラサイトのホン監督に無告の人になった犯人を映画にして欲しいです。
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