私のミニ韓国・朝鮮史(日韓・日朝関係史)

大学を卒業し社会人になるまでの私には、韓国・朝鮮にまつわる記憶というものはほとんどなく、興味も関心もなかった。そんなことは大方の学生だけではなく一般の日本国民も似たようなものだったのではないだろうか。

全共闘運動が全盛を極めた1960年代の後半から70年代初頭に学生時代を過ごした私も、何事もなかったかのようにして社会人になっていた。高度成長期にあった日本では就職は学生の売り手市場であり、高望みさえしなければ就職はいとも簡単だったのだと思う。学生時代は読書量だけは周りの同級生と比較しても結構な読書だったのではないだろうかとちょっぴりは自負している。

私が就職したのは大手の旅行代理店だった。取り立てて外国や海外旅行に興味があったわけでもない、なにか仕事をしなければという仕方ない理由で就いた仕事だった。それでも新入社員の年に韓国ソウルと香港へ行かされたのが後々の韓国との縁、邂逅になるなど思いもしない初めての外国だった。50年も昔のことなのに初めての韓国の記憶は鮮明、強烈に残っている。人との出会いが人生の方向づけになるのと同じくらいの韓国との出会いだったと思う。

底冷えのする晩秋のソウルにはどこか心寂しくさせられ、外国に来たという高揚感にはほど遠い不安な気持ちになる街だった。暗いイメージしかない街だった。供される食事は口に合わず、言葉は通じない街だった。観光通訳ガイドの年配の女性だけが頼りだった。ハングルの読み書きを土の地面に書いて彼女がハングルの初歩の初歩を教えてくれたのが強烈な印象で残った。

私に刻印された韓国の第一歩である。街の風景といえば丘の峠まで這うように建て込んでいるバラック、幅広の道路、夜12時を過ぎると外に出ることのできない夜間通行禁止、週に一日ある麦ご飯の日。どれもこれも暗い気持ちにさせられるようなことばかりだった。

帰国したあとに読んだ本がある。佐藤早苗という人が書いた「誰も書かなかった韓国」(サンケイ新聞出版)という読物風の本だった。これが私が初めて読んだ韓国に関係する本である。いまでも本棚の片隅にある。
 
2016年5月の連休を利用してソウルへ行った。街の風景、人々の表情などどれをとっても50年前の初めての訪韓時を思い起こすと隔世のソウルの街だった。それを発展というのであれば経済的な発展であろうし、それに伴っての人々の自信に満ちた表情の変わり方を見て取ることができた旅だった。

公私合わせて30回ばかりの私の韓国旅行と韓国関係の読書量などを振り返って辿っていけばそれが自ずと韓国現代史を映し出すことになり、ひいては私の韓国を見る目の変遷をあぶり出すことになるのではないかと考えたのが「私のミニ韓国・朝鮮史」である。そして先に言ってしまうと私は親韓でもなければ反韓でもない、ましてや嫌韓ではない。北朝鮮については社会主義国家を標榜しているが、外国人を平気で拉致してしまうような、夜郎自大な極めて特異な民族主義国家なんだなあと思いながら眺めている。

それではさっそくおぼろげな記憶の旅を始めることにしよう。

社会の動き、大坪の視点
1960昭和35年以前
 私の1950年代は小学校時代である。祖父が新聞を広げながらしきりに「リ・ショウバン(韓国・李承晩大統領)というのは、とんでもない奴だ」と言うのを聞いて、「どうして?」と訊いた。私なりに何がとんでもないのか疑問だったのだ。「漁に出ている日本の漁船を捕まえては朝鮮へ連れて行って、何日間も何ヵ月も帰れなくしている」と説明してくれた。何故そんなことをするのかまで、私が疑問に思うことはなかった。玄界灘を間にして韓国南部と向かい合う故郷の福岡県にとっては身近で切実な、頻繁に起きる事件だったのだ。
 李承晩大統領は、1952年に近海の水資源保護を名目に、日本との境界を一方的に主張して定めた海洋境界線を引いた。“李承晩ライン(リ・ライン)”と呼ばれているものである。これにより日本の漁船二百数十隻が拿捕され、漁師三千名近くが韓国に拘束される事態になったものである。
 祖父は憤懣やるかたなく腹に据えかねていたのか、近くの河川敷にバラックを建てて住んでいた朝鮮人一家が祖国(北朝鮮)に帰ったらしいと聞くと「チョーセンジンはみんな帰ればいいんだよ」とも言ったのを私はよく憶えている。祖父は「チョーセン人、チャンコロ(中国人)、ロスケ(ロシア人)」という言い方をしていた。レイシズムなど問題にならない、まだそんな時代だったのだ。近くの朝鮮人が祖国へ帰ったのは1959年から始まった北朝鮮への帰還事業によるものだ。後年私たちは早船ちよ原作の「キューポラのある街」の映画でその一端を観ることになる。
 朝鮮に関して個人的な事柄で記憶に残るのは、社会科の授業で北朝鮮の正式な名称を朝鮮民主主義人民共和国と答えて先生に褒められ、得意気になったことだろうか。
 1959年から1960年という時代は、子供ながらに世の中が騒然としていると思っていた。私の家からそう遠くない大牟田・三井三池炭鉱の労働争議が新聞紙上で記事にならない日はなく、日本中では日米安全保障条約改定の反対闘争の時代である。学校では「安保反対!」と言いながらデモ行進の真似をしていた。今風にいえば「アンポハンタイ!」は流行語大賞になりそうな、そんな時代であった。
1964昭和39年
東京オリンピックの年。祭典で沸き立つ新聞やテレビ放送の中に異質な話題があった。北朝鮮選手団の中、女子陸上中距離の金メダル候補と見られていた辛金丹選手のことであった。1950年に起きた韓国動乱(朝鮮戦争)によって引き裂かれていた父と娘(辛金丹選手)が東京オリンピックを機に再会を果たしたのである。しかし娘に会うために韓国から急遽来日したが、オリンピックをボイコットせざるを得なくなった北朝鮮選手団は帰国することになる。父と娘の再会は実現するが、わずかな間隙を縫って会えた時間はたったの15分程度であった。そんな痛ましいほどの出来事の記事に、私は目を奪われた。だからといって朝鮮半島や北朝鮮に思いを致すようなこともなく、東京オリンピックに心奪われていた。

そしていま、横田めぐみさんの親御さんの、胸を掻きむしるような無念や虚しさを思うと言葉が出てこない。
1969昭和40~44年
 高校時代から大学一、二年生の時期にあたる。受験勉強そっちのけで中国の近現代史に夢中になっていた。大学で東洋史をやってみたいと夢みていた。
 高校を卒業すると九州の田舎から上京し、都内の予備校を経て大学一、二年生を過ごした時代である。ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)全盛であり、学生運動が旧来の学生運動を否定する新左翼が学生運動の中心を担う時代になっていた。私が早稲田に入学した頃の学内は、学生会館の管理をめぐる闘争や学費値上げ反対闘争が運動の中心だったが、上級生には1960年代の日韓基本条約反対運動に関わった学生がまだ在学していた。条約反対運動は日韓双方で繰り広げられたが、1965年に基本合意で決着し運動も収束し、条約は合意内容も曖昧なまま合意、発効されたものである。今日までその影響を引きずっているのが徴用工問題、慰安婦問題である。
 韓国では1960年のクーデターを主導した朴正熙大統領の軍事独裁政権は、日韓基本条約反対の大学生、知識人マスコミを抑え込んで条約を成立させ、さらにベトナム戦争への派兵、参戦を強行していった時代である。民主化要求など時期尚早であり、とにかく経済の立て直しがすべてに優先されなければならなかった。米ドルを獲得していくための手段の一つがベトナム派兵であった。それゆえ日本でも日韓癒着を糾弾する形で韓国の朴正熙政権批判は当然のこと、それは同時に一方的な北朝鮮賛美の歪な構造が日本のマスコミの中に形づくられていったといえよう。社会主義、共産主義は理想的社会で資本主義は批判あるいは否定されるべきという風潮の中にあった。私の中でも韓国の軍事独裁政権は否定の対象、反自民、反米、反韓国、反朴は当然のことであった。
 その他1968年に静岡県で起きた殺人犯金嬉老という在日韓国人の猟銃を持った旅館立てこもり事件が、日本人社会に在日韓国・朝鮮人への差別問題を提起することにもなった特異な事件として記憶されている。後年ビートたけし主演でドラマ化(「金の戦争」)されたことから憶えている人も多いに違いない。
 1967年以来上京してからの私の住まいは練馬・石神井公園だった。大学時代は中学生相手の英語の家庭教師2軒の掛け持ちと、町の小さな書店でのアルバイトに勤しみ、夜は朝方近くまで本を読み耽る毎日、学校の授業はさぼりがちだが、学園闘争花盛りの時代で学生のストライキあり、学校側からのロックアウトありで授業らしい授業も滞りがちな毎日だったと思う。アルバイトで稼いだお金は大半が本代に消えていった。どんな本を読んでいたのか、とにかく手当たり次第であったが、西谷啓治著「宗教とは何か」が座右の書、手垢が付くほど読み返した。揺らぐ青春時代、まあ人並みに真っ当なことを考えていたのだろうが、将来これをやりたい、何になりたいなどと具体的なものは何もなかった。そんな中1968年の秋10月21日は新宿騒乱罪が適用された国際反戦デーの日、デモに行くことは当然のことのように私も新宿にいた。機動隊との衝突が新宿駅構内を中心にして数万人の反戦デモ参加者で溢れていた。そんな中からどうやって石神井まで警察に捕まらないようにしようと逃げ帰ったのか記憶にない。1968年というのは世界的にもアンシャンレジーム(旧来の体制)打倒が若者の心を捉えていた時代だった。
1970昭和45年
“思い上がり”が1970年を表すキーワードの一つではないだろうか。質素で謙虚な暮らしさえしていれば、ほどほどの生活が送れる時代になっていたが、気分的には浮かれていたのではないかと思う。それが3月に始まった大阪万国博覧会のキャッチフレーズに無意識のうちに表れていたにちがいない「人類の進歩と調和」。日本は必ずや豊かで便利になると国民の誰もが信じて疑わなかったのではないか。そんな風潮の中で衝撃的な事件が起きた。日本航空よど号ハイジャック事件である。日本で初めての航空機乗っ取り(ハイジャック)事件だった。新左翼の運動から過激化した赤軍派が3月31日の羽田空港発福岡・板付空港行きの日本航空を乗客乗員を人質にハイジャックし、北朝鮮・平壌へ向かわせようとしたのである。
 私は春休みの期間で福岡の家へ帰省中、事件はテレビの速報で知った。家から福岡空港まで車で15分ほど、駐機したままの映像がテレビに流れるのが長時間に及んでいた。交通規制され空港まで行ってみるにも近づくことはできなかった。その後の詳しい経緯は多くの記録、資料で知ることができるので割愛するが、現在でも犯行クループのメンバー中4人は北朝鮮に住んでいる。50年以上の年月が経過しているが、こうしてあの時代を思い起こしてみると、いま全共闘世代といわれる我々の同時代人はやはり頭でっかちで思い上がりが甚だしかったのだとの思いが強い。北朝鮮へ向かった赤軍派のメンバーも北朝鮮を革命の拠点にしようなどと、北朝鮮への侮り、無意識のうちに見下した自己中心的な傲慢な考えの他の何ものでもない。北朝鮮や平壌行きの中継地点となった韓国(ソウル)からすれば、尊大で独りよがりな犯行は、実行犯を含めた日本人たちが朝鮮半島に住む人々を見くびっていることの証しとしか思えなかっただろう。日本人の、韓国・朝鮮人を見下した意識こそが反日感情の理由の一つであることを我々日本人はもう一度胸に手を当てて考えてみる価値がある事件でもあったと思う。しかし当時の私には寸毫ほどにも二つの隣国に想像力が働くような素地などあるはずがない。
 1970年のもう一つの大きな出来事は三島由紀夫の割腹事件である。独特の制服を身に纏った“盾の会”なる親衛隊のメンバーと共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地本館のバルコニーから右からのクーデターを促す演説を行った後に、三島由紀夫が割腹自殺をした衝撃的な事件である。
 声明文の最初に書かれていた「檄」という一字が非常に新鮮に思えたのが印象的に残っている。
1970年代~80年代を通して経済大国といわれる時代に浮かれていた日本に、左翼右翼両極の考えの両派から警鐘を鳴らした日航よど号事件と三島由紀夫割腹自殺事件に共通するのは、革命を空想する“思い上がり”であったと私はいま思っている。戦後25年を経た1970年(昭和45年)は、深く記憶される年であった。
1973年発行の韓国査証
1973昭和48年
8月 金大中拉致事件
 1973年は70年代に生起した出来事の中でも特筆すべき事件となった金大中氏の拉致事件が起きた年である。時の朴正熙軍事政権を揺るがす民主化運動の象徴的存在だった金大中氏が滞在中の東京九段下のホテルから何者かによって拉致され、不法に韓国まで連行された事件である。のちに悪名高かった韓国中央情報部(KCIA)の仕業とされ、日韓間の大きな政治問題となった。日本のマスコミに悪評だった朴政権が起こした事件とあればなおさらのこと、日本でも妥協を許さない論評が大勢を占めた。乱暴極まりない所業には、私自身も朴軍事独裁政権に怒りを覚えるのは当然のことだった。社会人となってもまだ左派的で民主化を支持する考えにシンパシーを抱いていた時期である。
 この事件から数年後親しくなっていた年配の韓国人に私の思いを伝えて質問したことがある。「金大中さんというのは現代の金玉均ではないですか?」
金玉均は19世紀後半の韓国の近代化を目指した開明的な開化派の政治家である。来歴の後半部は私の小説「一身にして二生を経るがごとし」で書いた。一読いただければと思う。金玉均の名前を出したのは韓国の歴史を少し勉強したあとのことだ。知人は私の質問に明快な答えをしないで、かすかに微笑みを浮かべて「そういう見方もあるかもしれないね」と言って、それ以上その話題に乗ってはこなかった。
 答えるだけの知識も見識もある人なのにと思ったが、当時の韓国社会は政治的な問題に関わる話題に白黒を着け過ぎるのは、どんな災難が自分の身に降りかかって来るかもしれないという用心深さが国民の間には浸透していたからであろうと思う。民主的ではないといえばそれまでだが、政治は韓国の庶民にとってはセンシティブな、一種の恐怖政治の時代でもあった。日本人にはわからない時代相だったといえよう。
 さらに日本人にわからないこと、それは“韓国人は日本では何を、どんなことをしてもいい”と思っていることだ。
わたし事に限った韓国との縁でいえば1973年というのは記念すべき年である。
10月 初めての韓国(ソウル)旅行
 初めての海外旅行先が韓国ソウルであった。概略はこの表題の序文で書いた通りである。初の外国ということの緊張があったかもしれないが、それ以上に韓国という国、ソウルという街が私にとっては緊張を強いられる雰囲気に満ちていた。それは共産主義国家の北朝鮮と対峙し、準戦時体制にある街の緊張と、日本との大きな経済格差から来る街全体の暗さにあったからだと思う。
 品のない言い方をすれば、なにもかもが垢抜けしない貧乏くささが漂っているのである。ホテルロビーやレストランの雰囲気作りとは無縁の薄暗さもその一つであった。街中で二人の男がスコップを奪いあっていた。取り巻いている野次馬が喧嘩を止めようともしない。喫茶店でコーヒーを飲んでいるとテーブルの下で誰かに足を引っ張られた。靴磨きを強要されていた。ガムを一枚ずつのバラ売りをしている子どもがいる。何もかもが目を見張らされることばかりだった。
 迷彩服を着た若い人を何人も見かけた、兵士の休日だったのだろう。観光スポットのことは何一つ記憶にない。それだけ目にした市民の光景が焼き付いている。何もかもが興味の対象になった。隣国なのに何も知らない、知りたいと思った。韓国との縁の始まりになった。爾来韓国関係の本を読みあって50年になる。
1974昭和49年
8月 文世光事件
 韓国にとって毎年の8月15日は日本の支配からの解放を意味する光復節とよばれ、執り行われる式典では大統領が記念の演説をすることが恒例となっている。
 1974年の式典で国にとっても大統領にとっても韓国中に激震が走る凶事が起きた。演説中の大統領を狙った狙撃事件である。朴正熙大統領は難をのがれたが、壇上に同席していた陸英修刀自(令夫人)までもターゲットにされ絶命したのである。逮捕された犯人は当初日本人とされたが、文世光という北朝鮮の指示を受けた在日韓国人であった。    
 事件に使われたピストルが大阪の派出所から盗まれたものであったことから、日韓間の政治問題化し国交断絶寸前まで事態は拡大紛糾し、日本が謝罪することで政治決着する。しかし韓国籍の在日韓国人が起こした事件に何故日本が謝罪しなければならないのかと日本人にとっては不思議で納得いくものではなかった。韓国の甘えと日本の忖度の構造は現在でも変わらないのだなあ、と慨嘆してしまうのは私だけだろうか。
 私はこの時イギリスを一周するツアーの添乗員の仕事で日本にいなかった。この事件を知ったのは事件から数日経ったヨーロッパからの帰国の途についた機上の英字新聞によってだった。大統領を狙った犯行と夫人の狙撃射殺された事件とはいえ、ヨーロッパからすれば極東の小国に過ぎない国の事件なのだろうが、事件がもたらしたその後に触れた記事は短いものだったように記憶している。帰国後の私は不在中の新聞を貪るようにして読んだ。日本の新聞紙面はその多くが大統領狙撃事件の記事で埋まっていた。
 私の韓国・朝鮮に対する関心、興味もこんな事件などが契機になって大きくなっていったのだと思う。
1975昭和50年
5月 「李朝残影」「族譜」の著者、梶山季之香港にて客死、享年45歳
 
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976
昭和51年
6月 済州島へ行った。戦友会30人ばかりのツアーに同行した。目的地は済州島の南西に位置する摹瑟浦(モスリッポ)という南の海に面した町である。何の変哲もない集落のような町だったが、畑の広がる郊外へ向かうと、ツアーの目的物に違いない建造物が現れた。経過年数を感じさせるコンクリートの掩体壕(飛行機を隠すためのもの)跡であった。ツアーの面々は戦前まで海軍飛行練習生としてこの地で終戦を迎えていた人たちである。いくつかの掩体壕や付属の建物跡を探すように見て回り、しばしの時間佇んで周りをながめ、記念写真を撮り終わると町の小学校へ向かった。
 学校へは30~40個ばかりのサッカーボールを持参し、校長先生との雑談、練習機で校庭の上を低空飛行して子どもたちをからかっていたなどの懐旧談に花が咲いていた。学校を辞したあと彼らのもう一つの大きな目的である民家の訪問となった。ツアーのバスを降りた面々は、それぞれが2、3人ずつに分かれて我が家へでも帰るように早足でそれぞれの目指す民家へ向かって行った。
 当時の軍では日常生活は兵舎であるが、練習生の休日には一日を民家で過ごす下宿制度というものがあり、彼らが一目散に目指した先は自分がお世話になった下宿の家だったのだ。そこで過ごした時間は家族そのものを疑似体験ができ、家族関係に似た交流がができあがっていたのだ。いつ戦争の前線に行くことになるか、そしてそれは生死の先行きも知れない中でひとときの安らぎを得た思い出は懐旧の情をかき立てないはずがなかった。30年ぶりの再会に涙する人もいて、日本人、朝鮮人の隔たりもなく交流があったことがはっきりしていた。互いに本心はどうだったのかは定かではなかったが。
 「こんな立派な家になって」とメンバーの一人が言うと、「うちには来月テレビも来るよ」と家の主婦が誇らしげに答えていた。
 韓国では朴大統領の提唱、指示で1970年から農村近代化、農家所得の増大、生活改善運動の「セマウル(新しい村)運動」が全国で展開されていた時期である。〈自助・自立・協同〉のスローガンのもと生活改善、住宅の近代化などの事業が推進されていたものだ。朴大統領の評価は功罪相半ばしているが、セマウル運動は高い評価がされている施策の一つであった。私にとっての済州島訪問は1970年代韓国の象徴的時代相を見るいい機会になった。
 翌朝宿泊しているホテルのラジオを点けると、なんと日本語の放送が聞こえてきて驚いた。それも私の故郷福岡県の、福岡市内の交通情報だった。改めて済州島や釜山が福岡とは指呼の距離にあることを再認識する機会になった。
1979昭和54年
10月 朴正熙大統領暗殺事件
 1979年10月26日、朴正熙大統領が権力中枢側近の中央情報部(KCIA)部長に射殺、暗殺されるという事件が起きた。
 世の中は時々刻々変化していた。金大中、金泳三らの若手政治家を筆頭にした民主化を標榜する勢力の台頭、学生の反政府運動、デモの広がりに対抗するように朴大統領は戒厳令、衛戍令と矢継ぎ早に手を打った。それがまた火に油を注ぐように反政府勢力の拡大を呼び起こしていった。
 そんな情勢の中で頑なな大統領ではもう政権は保たないと考えた側近の中央情報部長は、大統領を説得することではなく排斥に至ったのが射殺暗殺事件だったと思われる。19年に及ぶ独断的で専制的な朴大統領のやり方は賞味期限切れだったのだろうと思う。独裁的なやり方がいつかは消滅しなければならない運命であることは、世界の歴史がそれを証明しているとも言える。朴正熙享年61歳であった。
 ただ私も当時は思いもつかないことであるが、自分が馬齢を重ねてみると、朴正熙というひとりの男がそのころどんな心境だったのかなあと、同情的に考えることがある。最も頼りにしていたであろう良き伴侶の陸英修夫人を亡くして5年、さらに側近がしだいに離反していく年月は、孤独で悲哀感に苛まれていたに違いないと想像を巡らせると、国のために全精力を注ぎ込んできた人物の、晩年の孤独感を思わずにはいられない。
 私がこのニュースを知ったのはロサンゼルス発東京経由ソウル行きの大韓航空001便のスチュワーデス(CA)からの情報だった。大統領が射殺されるなど前代未聞のことで、どういうことなのか想像もつかなかったことだけが鮮明に記憶される出来事だった。このころ頻繁に利用した大韓航空のソウル~東京~ホノルル~ロサンゼルス往復の002便、001便が妙に懐かしい。
この年、池袋サンシャイン60ビルの5階に[韓国文化院]が開設されている。図書館をはじめ月々上映される韓国映画鑑賞は韓国への関心をかき立てる貴重な情報源になった。その他刊行物としての「月刊韓国文化」は学術的な連載記事も多く、手頃な韓国研究の資料になった。またお知らせ的な媒体としての「韓国文化院友のニュース」があり、映画会などの催し物の情報を得ることができた。いつ頃のことだったか、文化院友のニュースのコラム欄に私のエッセイ風の駄文が掲載されたこともあったことを思い出した。三人の日本人女性スタッフ、O国女史、Y岡さん、N尾さんが懐かしい。
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980
昭和55年
“ソウルの春”と呼ばれた1979年の11月から1980年5月まで続くつかの間の政治的な解放されたような時代を指す季節である。私が知識として知っていた1960年の4・19学生革命と同じことが再現されているんだなあと思いながら、全羅南道光州市で起きている民主化を求める学生・市民一体となったデモの様子を伝える新聞記事を読んでいた。前年の朴正熙の死によって専制的な政治が終焉し、一気に民主化が実現するような機運が生まれた。暫定的大統領だった崔圭夏氏も、できる限り早い時期に、従来の朴正熙の長期専制政治を支えてきた憲法を改正すると言明していた。民主化を求めるデモは全国的に広がり騒然としていた。それが1980年5月の光州事件が起きるまでの“プラハの春”になぞらえた“ソウルの春”と呼ばれた、つかの間の儚い幻想を夢見た期間となった。
5月 光州事件                           
権力を掌握した全斗煥国軍保安司令官を中心とした新軍部にとって、全斗煥退陣、全面的な民主化、戒厳令解除を叫ぶ学生、市民の大規模なデモは脅威であり絶対に容認できないものであった。一旦は沈静化した全国規模のデモも全羅南道という反権力、反中央政治の地域的な特性とも相俟って光州市のデモはさらに過激さを増し、警察、軍と対峙する事態の内戦状態となり多数の死傷者を出す事件となったものである。その後戒厳令のもと、全斗煥氏は大統領となり軍主体の政治体制が続くこととなた。
1980年10月、朝日カルチャーセンター主催の陶磁器を中心としたツアーの仕事で同時に韓国の歴史的な慶州、公州、扶余、韓国の陶磁器の里広州などを巡ることができ、韓国の文化にも目を向けるきっかけとなった。
1980~90年ころの私と韓国
80年代の私は、韓国に最ものめり込んでいった時代である。
2~3年間だったが韓国居留民団系の新聞「統一日報」を購読した。その中で熱心に読んだ連載記事がある。批判的に書かれていたのだが、金日成から金正日への世襲、権力継承を推察、考察する記事から北朝鮮の様子にも興味をもって朝鮮半島全体を見る契機となった。
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98
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昭和56年
正月休みを利用して友人家族とのソウル夫婦旅行をし、零下15度の極寒を初めて経験した。宿泊したのは「ホテル新羅」だったが、その場所がかつて伊藤博文を弔った「博文寺」だったことを初めて知った。帰国の便に白仁天がいた。搭乗待ちの時間に少しの会話を交わしサインをもらったのも懐かしい思い出だ。白仁天は日本プロ野球韓国人選手の草分けである。この年近鉄バッファローズを最後に現役引退している。
 第24回オリンピック、ソウル開催に決定
ドイツの保養地バーデンバーデンで開催されたIOC国際オリンピック総会で1988年のオリンピック開催地がソウルに決定された。韓国は喜びに沸いた。対抗していた名古屋を蹴落としての決定だったことから、「名古屋が낙오했습니다(ナゴヘッスムニダ)落伍しました」と語呂合わせしながらはやし立て喜びを表現していた。韓国にとっては日本に勝つこと、またそんな気持ちを日本人に向かって言うことが何よりの快感なのだ。
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982
昭和57年
5月 韓国の5月は黄色が鮮やかな連翹の季節だ。訪問することになっていた楽善斎の庭にも新緑の中に連翹の黄色が映えていた。
 東京渋谷の日本きもの文化協会(清水とき きもの学園)と韓国の民族衣裳振興の団体が企画した日韓合同民族衣裳ファッションショーの仕事で5月の連休はソウルにいた。ショーの会場ロッテホテルのクリスタルルームは満員の盛況、日本の着物と韓国のチマチョゴリが交互に舞台を彩り、華やかさの中にも緊張感も漂う日韓の競演という趣きの違ったファッションショーが繰り広げられた。
 私にはショーの翌日のことの方が印象深い。30人ばかりの全員が思い思いの着物を身にまとい、ソウルの南大門市場や繁華街をそぞろ歩きした様は壮観だった。韓国にとっては着物の一団というのは、1945年(昭和20年)の終戦、解放以来の画期的なことだったろうと思う。どんな不測の事態が起きても不思議ではないと、私はハラハラしながら警備の人と一緒になって付いて歩いた。街の人たちの興味津々の目が注がれていたが何事も起きずに済んだ。
 翌日は役員クラスの数人に同道して昌徳宮一隅にある楽善斎在住の李方子(リ マサコ)女史表敬訪問の機会を得た。梨本宮家から朝鮮の皇太子李垠氏に嫁がれた内親王である。亡くなられるまで慈善事業に携わり、韓国国民から敬愛された生涯だったことはご存じの方も多かろうと思う。訪問した清水とき女史との話題は、清水学園の所在地が方子女史の実家である旧梨本宮家のほぼ敷地だった一角にあることなどから大いに盛り上がっていた。私も訪問者の一人として方子女史の自著「すぎた歳月」(非売品)を頂戴した。
1月~
36年続いた韓国全土の夜間外出禁止令解除 ソウルオリンピックに向けての措置
3月
韓国プロ野球 6球団で発足
日本のプロ野球で、通名(日本名)で活躍していた在日韓国人選手が韓国プロ野球に移籍、脚光を浴びるという相乗効果ももたらされるきっかけになった。
第一次教科書問題が持ち上がった。日本の反日的な大新聞Aは、高校歴史教科書改訂版で「侵略」を「進出」と書き換えたとした報道により中国・韓国との間に外交問題化した騒動である。
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983
昭和58年
1月 中曽根康弘首相、日本の首相として初めての韓国公式訪問。特筆すべきは、ソウルのメインストリートの世宗路、旧朝鮮総督府の建物だった中央庁(中央行政機関)に戦後初めて38年ぶりに日章旗が翻ったことだ。
2月 成城学園で開かれた北朝鮮へ渡った日本人についての講演会に足を運び、そんな境遇にある人たちの惨状を知る初めての機会を得た。
「鳥でないのが残念ですーー北鮮帰還の日本人妻からの便り」という冊子購入
6月 韓国放送公社(KBS)、韓国動乱(朝鮮戦争)停戦30年の特集番組「離散家族さがします」を放送。視聴率80%を超える反響となる。ソウルの汝矣島(ヨイド)にある放送公社ビルや国会議事堂周辺を埋め尽くすような離散家族を捜し求めるボードや幕、汝矣島を訪れるたくさんの人々。この時の光景は私の目に焼き付いて離れない。後年このことは「捨子花」という小説中に書いた。一読いただければと思う。
9月 東京・駒場の日本民芸館の協力を得て「韓国民芸の旅」が実現した。韓国の焼き物をはじめ木工品などの収集、研究に生涯を捧げた浅川巧氏が眠るソウル郊外の忘憂里(マウリ)を訪れることができた。
9月 大韓航空機撃墜事件。領空侵犯という理由でソ連空軍機に撃破され墜落。乗員・乗客269名全員死亡
10月 ラングーン爆破テロ事件発生
ビルマ(現ミャンマー)のラングーンで起きた、公式訪問中の全斗煥韓国大統領を狙った一大テロ事件である。国立墓地のアウンサン廟に仕掛けられた時限爆弾により同行の閣僚6人を含む21人が死亡したが数分遅れて到着した全斗煥大統領は難を逃れた。後に北朝鮮の仕業によるテロ事件であったことが判明した。
11月 望月(旧姓永松)カズさん永眠。韓国動乱の戦火の中で始まり133人もの孤児を育てた日本人女性で、理髪店を営み孤児を育てたことから「愛の理髪師」「38度線のマリア」と呼ばれた。著書「この子らを見捨てられない」はベストセラーとなり、「愛は国境を越えて」のタイトルで映画化されてもいる。韓国の名誉勲章の冬柏賞を授与された。私の愚作「切ない銅像」の第四章でもその一部を書かせていただいた。
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984
昭和59年
この頃の私は職場(銀座二丁目)から近いこともあり、東京・京橋にあった韓国書籍販売の専門店三中堂を頻繁に訪れた。(三中堂は現在千葉・佐倉へ移転している)店主の佐古さんには、なにかとアドバイスももらい感謝している。いまではリビングルームの壁一面を塞いでいる韓国朝鮮関連の蔵書をどうするかが悩みの種である。
4月 NHK韓国・朝鮮語講座が開講、放送開始された。番組名を何とするかで侃々諤々の議論百出だった。最終的に「アンニョンハシムニカ~ハングル講座」というなんとも奇妙なタイトルになった。
9月 全斗煥大統領、初の国賓元首としての訪日。天皇陛下主催の宮中晩餐会における陛下の日韓の歴史に触れたお言葉に注目が集まった。
「縮み志向の日本人」(李御寧著)、日本文化への独特な視点からベストセラーとなる。
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987
昭和62年
11月 大韓航空機爆破テロ事件 北朝鮮工作員による大韓航空の旅客機が爆破されるという異常性からの前代未聞の事件。インド洋上で墜落、乗客乗員115名全員死亡、乗客の大半が中東への出稼ぎ、帰国途上の韓国人労働者であった。犯人は日本人の「蜂谷真一」「蜂谷真由美」親娘になりすました北朝鮮工作員の「金勝一」と「金賢姫」であった。北朝鮮の目的は翌年に控えたソウルオリンピック妨害、阻止目的とされていたがそれほど単純な理由だけではなかったであろう。
Seoul Olympic Games, 1988
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988
昭和63年
9月 ソウルオリンピック開催
特別印象的なシーンは記憶にないが、88年に開催されたことから韓国では「パル パル オリンピック」と呼ばれた。韓国語で8はパルと発音する。いまでも韓国で「パルパル」といえばオリンピックのことである。
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989
平成元年
3月 息子とソウル二人旅
 ひとり息子が6年生に上がる春休みを利用してソウルへ行った。「韓国の正式国名は大韓民国というんだろう」と息子が言えるくらい関心もありそうだ、一度連れて行くのもいいかもしれないと思ったからだった。
 普通にソウルの観光スポットへ連れて行きながらも、南山公園にある「安重根記念館」と景福宮内の「閔妃暗殺」跡といわれている場所は少し観光コースからは外れていた。閔妃暗殺跡には案内文と畳一畳ほどの大きさの殺害の模様を再現したペンキ絵があった。6年生が理解するには少し難解だったようだが無意味ではなかったと思う。
 息子はロッテのチューインガムをいくつも買って日本との値段の格差に驚いていたのが印象的だった。旧朝鮮総督府の建物をバックにした写真が残っている。
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990
平成2年
9月 金丸訪朝 
金丸信(自民党元副総理)、田辺誠(社会党副委員長)を中心とした国会議員などが北朝鮮を訪問。金日成主席と国交回復を目指す方向の会談を行った。三党共同宣言署名。(注 横田めぐみさん拉致が大きくマスコミに取り上げられるのは、これから7年後くらいのことである)
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99
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平成3年
9月 韓国・北朝鮮 国際連合同時加盟
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992
平成4年
中国韓国、ロシア韓国、国交締結
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993
平成5年 
河野談話
“いわゆる従軍慰安婦”の問題に関して日本政府としての公式見解を河野洋平官房長官が〈謝罪と反省〉として発表した。これが後々まで問題解決を困難にさせ、日本側に刺さった棘にもなった。この談話は軽率の誹りを免れるものではない。
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994
平成6年
7月 金日成死亡
金日成主席が虚飾に満たされた生涯を演じ切ったようにして亡くなった。享年82歳、「地上の楽園」という「こうありたい史観」が現出しているかのような現実離れした社会主義国家を標榜する特異な社会と金王朝と揶揄される世襲制を残しての生涯だった。
ーー私の覚書ノートからーー
〈それにしても「主体思想」なるものを信奉するカルトの、なんと野蛮なことだろう。なんと無責任なことだろう。それは偏狭かつヴァーチャルなコリア式民族主義が生み落とした異胎である。冷戦という時代、中国と長い国境で接するという条件、「革命実績」が貧弱であるがゆえに、「革命妄想」にかられた金日成、そして妄想を「世襲」した金正日がこの異胎を育てたのである〉
ルポライター・作家 関川夏央
「井の中の民族主義」〈文藝春秋 2002年11月号に掲載より〉
10月 ソウルの漢江に架かる聖水大橋が崩落、32人が死亡した。杜撰手抜き工事が原因だと市民の怒りをかった。外観、外面にこだわる見栄っ張りが散見される韓国では起こり得る事故だった。建物の床や階段などが微妙に歪んでいたりしていることを「ケンチャナ(大丈夫、気にするな)」と言ってはばからないことを私は知っていた。
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995
平成7年
8月 旧朝鮮総督府庁舎の解体
日本による併合からの解放50周年を期して、時の金泳三大統領は、大理石造りの建物を解体した。解体には賛否両論があったが強固な反日の意思のもと併合の遺物としての建造物はなくさなくてはいけないというのが大統領の考えであった。
(筆者の私見 この当時思ったことは以下の通りでした。
金泳三氏(韓国国民)の思いはわからない訳ではないが、建造物を爆破破壊しても併合で舐めた屈辱感が記憶の中から消滅するわけではないだろう。破壊してもしなくてもその屈辱の思いは同じであろう。インドなどに残るイギリスやイギリス人の手によって造られた建造物がいまなおインド国内に多く残っていることを思えば大統領の狭い了見による個人的な思いにしか見えない。純粋に世界的な視点から20世紀の貴重な建造物という考えで残すという選択。それくらい価値のある建築物と言えると思うがいかがなものか?当時としては東洋でも一、二を競う価値ある建造物だったであろうに。
6月 三豊百貨店の崩落事故が起きた。施工不良、違法な増築などが重なって起きた人為的な事故とされている。お客など502名が亡くなった大事故である。
7月 女性のためのアジア平和国民基金
発足。村山富市内閣により「いわゆる従軍慰安婦」に対する補償を主目的として日本政府出資と募金による基金として運営を開始した。
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997
平成9年
12月 国際通貨基金(IMF)管理下の韓国経済 IMF危機ともIMF事態とも呼ばれる
東南アジア発の通貨危機が韓国経済にも大きな影響を及ぼした。IMF管理下、すなわち国家レベルの不渡りを出したことである。日米の通貨スワップによる米ドルの融通とIMF基金による救済措置によりどうにか危機を脱することが出来たのだった。ソウルの街中の様子を伝える映像には、一般市民が自発的に金のネックレスなどの貴金属類のものを提供しているシーンを流すなどして、経済的危機にあることを伝えようとする報道も見受けられた。
北朝鮮帰国の日本人妻、一時日本への帰国が実現(1997~2000年)
1997年15人、1998年12人、2000年16人の一時的な里帰りは実現したが、その後中断したままである
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998
平成10年
1月 黄長燁北朝鮮国際担当書記、韓国亡命
北朝鮮の主体思想を主導してきた人物の亡命は、北朝鮮にとっては打撃となったと思われる。これほどの大物政治家の亡命は嘗てなかった。
2月 第15代大統領に金大中氏就任
IMF管理下での財閥企業への大胆なテコ入れ、失業者対策など矢継ぎ早の施策実施、さらに日本文化の受け入れ解禁など金大中時代が始まる。
10月 日韓共同宣言を発表
小渕恵三首相と金大中大統領との間で合意、発表された。1965年の日韓基本条約以来の日韓関係を総括し、未来志向の日韓関係を確認することで合意、スポーツ・文化の交流、日本文化の解放などをうたいあげた。
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999
4月 3泊4日の気ままな韓国一人旅
 関釜フェリーを利用してみたかったが短い休みを利用しての旅行ゆえ仕方なく釜山の金海空港へ。ホテルの予約もなしの行き当たりばったりの旅だった。釜山では国際市場を始めとして龍頭山公園、釜山港など通り一遍のスポットを歩いた。
 戦前伯母が住んでいたことは聞き知っていて、釜山港では終戦後の引き揚げ時の混乱を想像しながら停泊中のフェリーを関釜連絡船に重ねながら写真に収めた。夕食も街中の大衆的な食堂で店の人に怪訝そうに見られながらの独り飯。生きている蛸の足をぶつ切りにしたものを食べた。蛸の足が口の中で吸い付いて往生した。書かれているメニューに笑ってしまった、「IMF特別価格」とあった。庶民は何処の国でもしたたかである。
 2日目の目的地は海印寺(ヘインサ)、釜山から鉄道の在来線を利用して東大邱へ。車窓から初めて洛東江(ナクトンガン)の流れを見た。思っていた以上の川幅だった。東大邱からは1時間30分ばかりかけての路線バスの旅。少しの不安と興味津々が同居するのが外国の路線バス利用である。
 山間にある静かなたたずまいの海印寺は期待を裏切らなかった。世界遺産の八萬大蔵経の版木を見ることはできないが、格納されている建物を見ただけでも満足した。小さな門前町で宿をさがす。濡れ縁みたいなところから直接部屋へ入る6畳ほどのオンドル部屋に一泊、じか敷のカラフルな布団に包まって寝たのが懐かしい思い出になった海印寺への旅、これだけで充分、翌日は大邱へ戻り、東大邱駅から特急セマウル号でソウルへ向かった。一人旅の醍醐味を満喫できた旅になった。
2000平成12年
6月 615南北共同宣言
対北朝鮮で緊張緩和、融和を掲げる金大中大統領は、平壌で金正日委員長と南北首脳会談、南北共同宣言を締結した。太陽政策と称された。
10月 金大中大統領ノーベル平和賞受賞
一連の対北朝鮮の太陽政策が評価されて
韓国初のノーベル賞を受賞した。
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平成13年
12月 北朝鮮工作船 爆破沈没事件
東シナ海の日本領海侵入していた北朝鮮工作船は海上保安庁巡視艇により撃沈沈没する事件が起きる。その後(2003年)同船は引き揚げられ、東京・お台場の船の科学館などで公開された。
2002平成14年
6月 日韓共催サッカーワールドカップ
が開催された。ニュースで見た限りだが韓国は日本以上にサッカーに熱狂、ソウル市庁舎前広場はチームのユニフォーム色の赤一色で埋め尽くされていた。
9月「日本人拉致」が明らかに。 初めての日朝首脳会談が開かれた。
小泉総理が平壌へ出向き、北朝鮮トップの金正日国防委員長が向き合う初めての首脳会談である。「日朝平壌宣言」に署名、金正日国防委員長は、日本人拉致の事実を認め、謝罪した。蓮池夫妻、地村夫妻、曽我ひとみさんの5人が数十年ぶりに帰国を果たしたが、横田めぐみさんら多くが帰国が叶わないままで今日に至っている。
ーー私の覚書ノートからーー
*以下にノートに書き留めておいた「日本人拉致」についての顕著な新聞記事(抜粋)をここに書き記しておくことにする。卑劣な行為をした同胞を恥じている詩人の悲痛な叫びが聞こえてくる文章だと思い書き留めておいたものだ。
在日の詩人金時鐘氏
2002年9月17日付け、毎日新聞夕刊掲載
〈拉致 人道上のこの上ない卑劣な拉致行為は、植民地朝鮮からの強制連行を差しひいても余りある…………。太平洋戦争では90万人が強制的に日本に連行され消息の分からない人も多い。補償がされたわけでもないが、もう言える筋合いではない。北朝鮮の行為はそれほど愚劣で許せない帳消ししてあまりある〉
〈北共和国と呼ぶ。「人民」も「民主主義」もない 2200万同胞にその内容も知らしめない国は、こう呼ぶに相応しい〉
〈神がかり的な金正日の存在からして言えるはずのない謝罪をした。譲歩したつもりでいる。でもな、それは人民に知らされない謝罪。人民すべてが知って恥じ入らねばウソ〉。
2003平成15年
NHKが取り上げた韓国ドラマ「冬のソナタ」が先駆けとなり、韓流ドラマブームとなった。私がしっかり観たのは「グッキ」と「斎衆院」の2つだけである。いずれも戦前の朝鮮半島が舞台である。 
2月 盧武鉉政権発足
盧武鉉大統領時代の法制定の中、顕著な法に「親日反民族行為財産帰属特別法」がある。大統領直属機関が、日本の統治政治に協力した者(李完用など)の子孫が所有する土地を没収するとした法律制定である。法の不遡及の精神に反するとされたが強行施行された。
2006平成18年
ワールドベースボールクラシックのマウンドに太極旗を立てる愚行
スポーツの世界に政治を持ち込む愚が非難される。日本及び日本人に対しては何をしてもよく、許されるという韓国人の甘え、もしくはコンプレックスの裏返しとしか思えない行為である。
朝鮮総連系在日朝鮮人と北朝鮮へ帰国している家族の行き来、葛藤などを描いたドキュメンタリー「ディア ピョンヤン」を渋谷の小劇場、渋谷シネ・ラ・セットにて鑑賞。プロパガンダ的なもののない創り方が新鮮で好感のもてる作品であった。
2008平成20年
2月 李明博政権発足
2009平成21年
金大中氏死去、盧武鉉氏自殺、死去
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平成23年
日本大使館前に慰安婦少女像設置。もはや宗教と化した反日行動の「反日教原理主義」の極地である。
10月 「伝説の舞姫・崔承喜展」を観に行く(於:韓国文化院)
プリマ崔承喜の生誕100年を記念したイベントである。「半島の舞姫」といわれ、ピカソ、アインシュタインをも魅了し、川端康成をして当代一の舞踊家と激賞された崔承喜の写真を中心とした展示と、作家西木正明氏の講演。私たちは写真でしかその姿を想像するしかないが、それでも躍動感や優美さが伝わってくるバレリーナだったのだと思えた。
 彼女には朝鮮人としての矜持が伝わってくるエピソードがある。モダンダンスの先駆者だった舞踊家石井獏の門下生となった16歳のとき大正天皇の崩御に遭遇したときの言葉が残されている。「私たちの国をいじめるところの一番お偉いお方でしょう、天皇さんを拝む気持にはどうしてもなれません」というものである。被支配民族の16歳の女性とは到底思えない感性である。崔承喜の残されている舞台映像は、you tubeの河正雄アーカイブで見ることができる。
12月 北朝鮮の金正日死去
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2
平成24年
8月 李明博大統領 竹島上陸。政権末期の反日パフォーマンス、韓国国内向けに人気取りの行動という皮肉も。
天皇陛下(訪韓すれば)謝罪を求めると発言。日本は反発、抗議。
10月 応募していた秋田の「さきがけ文学賞」で次点、惜しくも入賞を逃した。作品名「ソウルの木漏れ陽」
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3
平成25年
2月 朴槿恵氏18代大統領に就任
3月 朴槿恵大統領、三・一記念日の演説で日本に向けて。「加害者と被害者という立場は千年過ぎても変わらない」の発言で波紋を呼ぶ。日本では「謝罪と賠償」をいつまで続けるのかの反発の声と「もうウンザリ」という気分が広がった。
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4
平成26年
4月 セウォル号沈没事件
修学旅行の高校生を中心にした299名が命を落とした大規模な沈没事故である。そのときの朴大統領の所在地、行動の不明な時間の過ごし方が物議を呼び起こすことになった。
11月 朴裕河著「帝国の慰安婦(日本語版)」発売
韓国国内では猛反発、提訴されるが、極めて冷静な視点から問題点が捉えられている著書である。
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平成27年
3月 金玉均の命日の翌日に墓参り 青山外人墓地と文京区向丘の真浄寺へ行く
6月 日韓国交正常化50年
年間500万人が往来する時代、隔世の感
9月 朴槿恵大統領、「中国・抗日戦争勝利70周年」パレードに参観 朴槿恵氏の離間外交と呼ばれている。
12月 慰安婦問題 日韓合意「最終的かつ不可逆的な解決」を確認
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平成28年
5月 ソウル旅行~併合期の痕跡を巡る
19世紀末から1945年に至る韓国併合期の痕跡にフォーカスしたソウルを歩き回る。1940年と現在の地図を見比べながらの旅。くまなく書こうとすれば一篇の旅行記になる。訪ねた所を列記して記憶に留めておくしかない。金玉均旧宅跡、朴泳考旧宅、ロシア公使館跡、優美館跡、京城第一高女跡、京城帝大本館(建物は現存)、舞鶴女子高(旧舞鶴高女)、旧ソウル(京城)駅貴賓室・レストラン、韓国電力(旧京城電気)ビル、仁旺山、鐘路歩き、忠武路(旧本町)歩き等々、これくらいで止めておこう。併合期の京城へのタイムトリップのための旅となった。
慰安婦問題の合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」に10億円拠出
朴槿恵大統領弾劾ローソク集会
在釜山日本総領事館前に慰安婦少女像設置

6月 栃木県佐野市へ。19世紀末李氏朝鮮開化派、日本への亡命者たちの後援者だった須永元氏の拠点である佐野市。佐野市図書館、金玉均の扁額がある妙顕寺などを訪れる。
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平成29年
2月 金正男氏マレーシアにて暗殺される
金正恩北朝鮮労働党書記の異母兄にあたる金正男氏をクアラルンプールの空港ロビーで化学毒物を用いて殺害。
3月 朴槿恵大統領罷免
5月 文在寅氏第19代大統領に就任
文大統領、慰安婦問題合意及び「和解・癒やし財団」を一方的に解消、日韓の合意の卓袱台返しをおこなう。
11月 米国トランプ大統領国賓として訪韓
晩餐会には慰安婦の女性を招待、さらに饗された料理に彼らがいうところの独島(竹島)エビが出された。国内向けのパフォーマンスではあるだろうが、日本を意識したメニューである。そんな場にも政治を持ち出すのは少しばかり品位に欠けるのではないかというのが私の率直な思いであった。
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平成30年
2月 平昌冬季オリンピック
北朝鮮の参加と、金正恩書記の妹与正氏の来韓、韓国政府の過剰な接待が話題となる。
10月 徴用工問題、日本企業へ賠償命令
日本の見解は、すべては1965年の日韓基本条約で解決済みである、との立場を堅持し続けている。
12月 韓国海軍駆逐艦による海上自衛隊Pー1哨戒機へのレーダー照射
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令和元年
7月 日本、半導体素材3品目の輸出規制
韓国をホワイト国対象からの除外措置
8月 韓国、日本とのGSOMIA(軍事情報包括保護協定)破棄通告
ホワイト国除外への対抗処置
日本製品の不買運動始まる。民間運動に名を借りた官製運動というのが日本の見方である。
11月 韓国、GSOMIA破棄を撤回、米国の意向に沿った撤回措置といわれている。
2020令和2年
1月 ホンジュノ監督、アカデミー賞受賞作「パラサイト 半地下の家族」鑑賞。
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令和3年
北朝鮮に渡った日本人妻、姉と妹の再会を扱ったドキュメンタリー映画「ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん」を鑑賞。中野の小劇場、ポレポレ東中野にて
7月 東京オリンピック開催。選手村宿舎での韓国選手団の反日的な行動が物議をかもし、メディアの格好のネタになる。
12月
尹東柱(ユン ドンジュ)の石碑を訪ねる。
京都旅行。念願だった同志社大学・今出川キャンパスに建立されている尹東柱の石碑をみることができた。韓国の国民で知らない人はいないというほどの詩人である。1945年福岡刑務所で獄死した。私の小説「大邱サグァ」に尹東柱を書いています。
2022令和4年
5月 尹錫悦氏 20代大統領就任
10月 ソウル梨泰院(イテウォン)雑踏事故。ハロウィン前夜の29日に159人の死亡者が出る惨事。1980年代初頭に訪れたことのあるイテウォンは韓国の匂いのない在韓米軍の街アメリカ軍の基地の街だった。