一
「わたしのアボジは死んだのですか? 殺されたのですか? あッ、アボジは日本語でオトさんのことです」
キチベのヨシは「おとうさん」と言えず「オトさん」と舌足らずで「オ」だけが強く残る言い方をし、哀願するような眼差しでカズ代に訊いてきた。
「あんた、滅相もない。殺されたなんてそんなこと言ったら、また警察に連れていかれるよ」
京城(現韓国ソウル)青葉町の家には、三歳と生まれてひと月余りの、長谷辺カズ代の孫娘二人がいるだけである。
青葉町は、中心部から約三キロほどの住宅街、路面電車の走る大きな通りを隔てて、日本陸軍第二十師団の施設と向かいあっている。
孫娘二人の母親夏子は、出産後久しぶりに外出していた。
「赤ちゃんを見ていたら、アボジのこと考えて急に悲しくなってきた」
ヨシは言いながら目を潤ませている。
カズ代は、二人目の孫娘が生まれたという知らせを受け取って、二週間ばかり前に、内地福岡から京城の長男夫婦の家に来ていた。昭和十五年(一九四〇)のことである。カズ代にとっては二回目の京城であったが、三年前に来たときヨシはいなかった。
ヨシは朝鮮人の、住み込みのお手伝いである。上の孫娘が生まれて半年ばかりして雇い入れた娘で、二年半ほど同居していた。
カズ代の長男、明は朝鮮の統治機関である朝鮮総督府に勤める官吏であり、福岡の工業学校を卒業するとすぐに朝鮮へ渡っていた。そして京城育ちの女性、夏子と結婚した。
京城に住む内地人(日本人)家庭のどれくらいがお手伝いや女中を使っているかはわからないが、特別に裕福な家庭とは限らず、普通の中流家庭でも朝鮮人女性を家事手伝いとして使っているところはいくらもあった。内地人は彼女たちを、十代の住み込みの娘を〈キチベ〉と呼び、中年の女性を〈オモニ〉と呼び慣わしていた。やることはキチベとオモニは同じようなもので、食事、洗濯、掃除といった雑事であったが、キチベには幼い子供の子守も任されていた。キチベのヨシというのはもちろん本名ではない。本名は「李京淑」といったが、長男夫婦が一方的に淑という一字から連想して、ヨシと呼ぶことに決めたのである。本人の意向など考慮されずに勝手に付けた呼び名であり、夏子は普段は「ヨシ」と呼び捨てにしたし、機嫌がいいときは「ヨッちゃん」と呼んだ。そこには単に主人と使用人という関係ではない、日本という優位な立場にある国の植民者と、被植民者の厳然とした上下関係に裏打ちされた意識が反映されているものであった。
「今度は警察に連れていかれるだけでは終らないよ。夏子さんは『この家から出て行って』と言いかねないよ」
「わかりました。もう言いません」
「日本人にだけじゃなくて、よくこの家へ来る行商のオバさんたちや、近所の知り合いにも言ったらだめよ」
カズ代はこの家へ来てわずかな時間しか経っていないが、なぜか京淑と波長が合っていた。それは京淑にも同じことが言えたようだ。
京淑はカズ代を、「オカさん」と呼んだ。嫁の夏子が「お義母さん」と呼ぶのに倣っている。長男夫婦のことは「旦那さん、奥さん」と呼んでいた。
夏子が近くにいるときは遠慮がちであったが、なにかと「オカさん、オカさん」と言ってカズ代のそばへきて話をしたがった。
京淑の日本語は、ところどころに朝鮮語訛りが混じることはあったが、会話には何の支障もなかった。読み、書きができるのかどうかカズ代は訊いたことはない。長男の明が言
うには、小学校の二年か三年までで学校をやめたようだ。大正十一年(一九二二)生まれ
だというから満十八歳の娘盛りである。しかし京淑は実年齢よりも三、四歳幼くみえる。
発育が遅かったのかもしれない。
カズ代が京城に来た日から一週間ばかり過ぎた六月のはじめに、カズ代と京淑は京城の繁華街本町へ出かけた。夏子の出産からさほど日が経っていないこともあって、夏子の代わりに、二人はまとまった買物をするために日本人の街、本町へ出向いた。
梅雨入りはしていなかったが雨がちの日が続いていて、その日も朝から小雨が降っていた。
京淑は久しぶりの外出に、浅葱色の木綿の布地に襟にレースの縁どりをした、娘らしいワンピースを着てきた。夏子がミシンを使って作ってやった服である。新しい服が嬉しいことに変わりはなかったが、京淑には心中物足りない思いもあった。連翹のような黄色や、もっと原色に近い青であればいいのにと密かに思った。朝鮮人の色彩感覚では、淡い色合いよりもはっきりした原色のほうが好まれるからだ。自分で作ってもみたかった。京淑は自分にもミシンの使い方を教え、使わせてくれないものかと考えていたが、主人に対して気安く言えることではない。
「いい服ね、とても似合っているよ」カズ代が褒めた。
スラリとして色白の京淑がいるところでは、垂れ込めた雲の裂け目に太陽が射しこんだように、その場が明るくなった。
夏子は自分が作ってやったワンピースにもかかわらず、服のことには何も触れず、カズ代と京淑に向かって一言「いってらっしゃい」と言っただけで、さっさと赤ん坊に乳をふくませ始めた。
「晴れていればよかとにねえ」折角の外出を悔むようにカズ代が言うと
「そうですか? 洗濯などできないから、奥さんが私にも行かせてくれたのかもしれません。だから雨でよかったです」
カズ代はそういう見方もあるのかと思いながら、府電の練兵町電停まで、足場の悪い路地を歩いて行った。
「本町といっても私は何も知らんから、ヨッちゃん、ちゃんと連れていってね。わたし、カフィを飲みたいと。福岡では美味しかカフィないの、物資統制でね」
「どこに売っていますか?」
「知らんから、連れていってとお願いしているの。カフィスタンあるやろ?」
「それは何ですか?」
コーヒースタンドのことである。
「あんた飲んだことないと? わたしはコナカフィが好いとる」
「わたしはラムネが飲みたいです」
「それはまた安上がりだね」
カズ代はハワイ移民の子である。九歳から十八歳まで、ハワイ島のヒロ近くの農場で育
った。近所にはフィリピン人もいれば朝鮮人、ポルトガル人もいた。そして、それぞれが
自国の生活習慣を引きずって生きていた。
ハワイのカズ代一家の生活は日本そのままで、学齢期の十歳くらいまで、学校というにはおこがましいばかりの日本人学校で学んだものの、日常生活の中では、英語も生活の中に入り込んでいて、日本に嫁入り帰国しても、ときどき英語が混じるのも致し方なかった。ハキハキした性格に加えて、仕草や言動にもハワイ生活のなごりが残っている。十八歳で帰国後、両親の出身地福岡の大工に嫁ぎ、四男をもうけた。衣食住の端々に、ハワイとの間に違和感があるのはしかたなかった。着るものも当初は洋服を好んで着ていたが、九州の田舎では、周りにそぐわないことから和服での生活が多くなった。しかし子供のころから親しみ覚えた味覚は、日本茶に馴染まず、コーヒーが手放せなかった。
九州弁に英語が混じっていることもあって話がかみ合わないが、二人は浮き立つ気持のままに、笑い合いながら電停に着いた。
十人ちかくの人たちが電車を待っていた。
朝鮮木綿の、白のチマ・チョゴリ(韓服)を着て、小雨に濡れながら立っている老女がいる。京淑がその老婆に傘を差しかけてやると、何度も何度も礼を言っているようだ。京淑の装いを見て、内地人(日本人)と思っているのだろう。
電車が来た。たった一人の乗客が降りると、電車を待っていた人たちは、雨を避けるようにわれ先にと乗り込んだ。
朝鮮人の老婆がチマ(スカート)をからげるように乗り口に足を掛けたとき、あわてて電車から降りてきた学生風の男に押し退けられて老婆がよろけ、そのあおりで京淑は、一段高くなったプラットホームから足を踏み外して、道路に投げ出された。
男は助け起こすどころか、詫びも言わずに立ち去ろうとした。
「あんた、謝りなさいよ」
カズ代は、男の上着の裾を掴んで強い口調で言った。
男は、朝鮮人の老婆に向かって昂然と言い放った。
「朝鮮人のくせに」
裾を掴んで抗議した和服姿のカズ代にではなく、男は、朝鮮人の老婆に言い放った。
カズ代の目を避ける卑劣さに、カズ代は決めつけるように強く繰り返して言った。
「謝りなさい!」
災難の三人は電車を乗り過ごした。
京淑は道路上にしゃがみ込んだままで、投げ出された袋物と散らばった中味を懸命に拾うと、やっと立ち上がり、タバコ箱大の一枚の写真を服に押し当てている。
「大事なものが……、大事なものが」と二回繰り返すと、ちくちくと顔に降りかかる雨を拭おうともせず立ち竦んだままである。カズ代は京淑の傘を拾い上げて手渡した。
やり過ごしたあとの電車に乗り込むと、空席がなく、十五分ばかりの所要の区間を立ったままで行くことになったが、京淑のワンピースは泥水に汚れ、二人がハンカチをあちこちに当てていた間に、電車は鮮銀(朝鮮銀行本店)前、本町入口に着いてしまった。 電車を降りて歩きはじめた二人は、後ろから男に突然呼び止められた。
「おい、ちょっと待て」
振り返ると、傘も差さずにカーキ色の服の男が近づいてきた。
「警察の者だが、ちょっとそこまで来てくれ」
「なんで私らが警察へ行かにゃならんと?」
物怖じしないカズ代が歯向かうように言ったが、有無を言わさず、カズ代と京淑は何のことやら訳がわからないままに本町警察署へ連れていかれた。
「何か悪いことでもしましたか?」
促されて入った三畳ばかりの小部屋の中で、カズ代は疑問を口にした。
「その前に名前を聞いておこうか」
刑事らしい男は、問答無用とばかりに高圧的に言った。
「わたしは長谷辺カズ代」突慳貪に答えた。
「おまえは?」
「李京淑です」
「朝鮮名じゃなくて、創氏改名した名は?」
二月から施行された朝鮮人も日本風の苗字に変えるようにという政令が施行されていた。創氏改名後の、日本風の名前を訊いているのだ。
「まだしていません」
「まあ、それはいいとして……」
刑事はそんなことには興味がないとでもいうように、カズ代に顔を向けて言った。
「何もわかっていないようだから教えてやる。車掌が『ただいま神宮前通過でございます』と言っているときに、おまえたちは何をしていた? 首を垂れないばかりか、ゴソゴソとこの娘の服を引っ張ったり、ハンカチでなにやら拭ったり。朝鮮神宮を何と心得ているのか。時局もわきまえぬ非国民とは貴様らのことだ」
「わたしはついこの間、福岡から京城に来たばかり。何のことやらさっぱりわかりません」
「おまえもか?」
京淑に向かって訊いてきた。京淑は怯えた目つきで首を左右に振った。
「朝鮮神宮前を通過するときは、だれもが頭をさげることに決まっとることも知らんのか。どなたが祭神か言ってみろ」
「…………?」
「畏れ多くも天照大神と明治天皇を祭神に仰ぐ官幣大社である。南山には、乃木大将を祭神とする乃木神社もある。いまわが皇軍は、支那で多くの将兵がお国のために戦っていることぐらい知っているはずだ」
「それくらい知っています」カズ代が無愛想に答えた。
「だったら皇軍の武運を祈願してお辞儀ぐらいしろ。たかが服が汚れたくらいでジタバタ
するな、非国民め」
刑事に居丈高に非国民と罵倒されたカズ代は、むらむらと怒りと反骨心が込み上げてきた。黙っていられなくなった。
「わたしはあなたにそこまで非国民呼ばわりされる筋合いはない。わたしも息子二人が兵隊にいって、お国のために戦っている。どこが非国民か言ってみなさい」
前後の見境なくカズ代が反駁すると、刑事はたじろいで、急に態度を変えて言った。
「……わかった、もう帰ってよろしい。次からは頭ぐらい下げろ」
カズ代は返事もせず、小部屋の扉を開け放ったまま外へ出た。
京淑は、カズ代の剣幕に目を見張り、凍りついたように立ち竦んでいた。
カズ代は警察署を出ても押し黙ったままで一言も発しなかった。
――何が官幣大社だ、何が乃木将軍だ。頭を下げれば戦争に勝ち、息子たちが無事帰還するというのなら、いくらでも頭を下げてやる――口に出すのをやっと抑えていた。
カズ代は神仏を一切信じていなかった。信じられない理由がカズ代にはあった。
四男の正行が満一歳の誕生日を迎えたころ、高熱と右足の激痛に襲われ、いくつもの病院にかかりながら原因もわからず、長じてからも松葉杖の生活を余儀なくされていた。
カズ代は方々の病院とは別に、占い師の見立てに従い、縁起をかついで自分と四男の改名をし、勧められる神社で、半年ちかくお百度を踏んで快癒祈願をしたが、何のご利益もなかった。以来一切の神仏や宗教というものを信じることができなかった。
母親というものは、わが身に降りかかる災難よりも、腹を痛めた子供への災難が耐え難い苦痛である。そんなわが子の中から、二人もお国のために兵隊に行っているのだ。非国民どころか、これ以上のお国への奉公がどこにあるというのか。
「オカさん、ラムネがありますよ」
ショーウィンドーに貼られた品書きを見た京淑のあどけないひと言でわれにかえって、カズ代はにっこり笑った。
「ヨッちゃん、ラムネとカフィ飲んで帰ろう」
二人は、雨もあがった本町通りの喫茶店、金剛山パーラーへ、いそいそと入っていった。
「ラムネを飲みたいというのも変わっとるね。あんた、アイスクリームもたのみなさい。わたしはカフィ二杯飲むよ」
コーヒーをひとくち口にすると、カズ代は警察で叱責されたことへの鬱憤がぶり返してきた。
占い師の言を信じて毎朝四時起きでお百度を踏み、一番好きなものを断って願懸けをするように言われ、コーヒーを断ち、神社に通い続けた日々を思い浮べていた。何の効果もなかったお百度と願懸け。
カズ代の思考回路のどこかには、アメリカ的な自由主義、個人主義的なものがあったかもしれないが、祖国を愛する気持にはかわりがなかった。非国民などとんでもない。刑事の所業には、いくら時間が経ってもカズ代の気持は収まらない。
「この店はいいね。カフィがたくさん飲めるから。福岡の店に入るとね、カフィ言って
も通じらんのよ、コーヒーと言わんと。でもさっきの店員さんは、カフィと言ったら、コッピーですか? と発音するからよくわかったよ」
店員は朝鮮人なのだろう、コーヒーではなくコッピーと発音するのは日本人ではないからだ。
「今日は厄日だったね。せいぜい美味しいものでも食べて帰ろ」
「ヤクビ? それ何ですか?」
「運が悪い日よ、こんな日は悪いことが重なるのよ」
「神様にお辞儀しなかったのは悪いことですね」
「そんなことはないよ。わたしは神様なんて信じてないよ。ほんとは、電車の中で頭を下げる決まりがあることぐらい知っとった。でもそんなことしても何のご利益もないよ。あの刑事と乗り合わせて運が悪かっただけよ。だから厄日」
外に目をやると、本町通りを過ぎていく人々はもう傘を差していなかった。
「ほら、美味しいもの飲んだら晴れてきた。厄払いのカフィとラムネだね」
二人は、まるで秘密を共有する者同士のような親近感を覚えて、微笑み合った。
「奥さんに作ってもらった服を汚してしまって、怒られないですか?」
「そんなことないよ、あんたのせいじゃない。あの学生風の男が悪いんだから。洋服のことよりも、水に濡れた写真、大丈夫だったの? あれは何の写真?」
「わたしと、わたしのオトさんオカさん三人で撮った、たった一枚の写真です。大事なもの、宝物です。私が生まれて満一歳のときに写したと、写真の裏に書いてあります。朝鮮語で〈トルチャンチ(祝満一歳の意)〉というお祝いをしたときのものです。でもオトさんもオカさんも、もういません。死んでしまいました」
「そうだったの。つらいことを訊いてしまったね」
「いや、大丈夫です。こんどわたしの話をたくさん聞いてください。オカさんには何でも話せる気がします」
「いつでもいいよ。家でゆっくり聞くよ。さあ用事を済ませて帰ろうか」
カズ代と京淑は、全部の買物を三中井百貨店で済ませると、本町入口の電停から青葉町の家へ帰っていった。
途中車掌が朝鮮語訛りの大声で「タタイマ神宮前通過テゴジャイマス」というのをカズ代は予測して、俯き加減に眠ったふりをしてやり過ごした。
雨の日の災難を境にして、カズ代と京淑は急速に親しさを増した。
京淑は日を措かずして、カズ代に自分の両親のことを語った。
「旦那さんにも、奥さんにも、話したことはありません」と前置きして、写真を見せながら遠慮がちに話し始めた。泥水に汚れたあとの写真は波うっていた。
「これはお母さん?」
カズ代は、赤ん坊を抱いている女性を指差しながら、まばたきが止まった。
「わたしのオカさん、そしてこれがオトさん。赤ちゃんは満一歳の私です」
「お母さんは日本の着物を着ているじゃないの、日本人なの?」
「ソです。オカさんは日本人、オトさんは朝鮮人です」
京淑はいつでも「そうです」ではなく「ソです」と短く発音した。
父親は背広を端正に着こなした、恰幅のいい立ち姿であり、椅子に掛けた、和服の女性の膝に抱かれている京淑は、袖口に四、五本の筋がほどこしてあるチョゴリとチマ。写真の右下には〈京城・○○寫眞館〉という屋号が右から左への横書きで入っている。
京淑は写真を裏返すと、水に滲んで消えそうなインクの文字を辿りながら
「ここに朝鮮文字で、京淑・トルチャンチと書いてあります」
その横には〈大正十二年二月〉という字が見えた。
「オトさんはトルチャンチ(誕生日)のお祝いをした年の九月に死んだそうです。そしてオカさんは……」京淑は涙ぐみながら続けた。「わたしが学校にいっているとき、九歳か十歳のときに病気で死にました」
母親の死後、京淑は父親の弟、叔父のもとに引き取られたという。
「オカさんが生きていたときは、京城の近所の朝鮮人が通う普通学校(小学校)へ行きました。叔父さんの家に行ってからは、学校へ行きたかったけど、家が貧乏だから、行かせてもらえませんでした」
二
京淑の両親の名前は、父親は李瑛根、母親は林チヨといった。
たった一枚の写真から推測できることは、京城に住み、何か商売をするか、勤め人の家庭であったようだ。
母親は細面で、大きめの眼と、鼻から唇にかけての形も反り気味に整っていて、素人ではなくどことなく花柳界の空気を吸っている女性のように見えた。生前の両親がどんな生活だったのかは、京淑の記憶と、京淑が周りの人間から聞かされている話をつなぎ合わせてみるしかない。
父親は大正十二年(一九二三)の関東大震災で亡くなった。
京淑満一歳の誕生日のあとすぐに東京へ行き、九月一日の大地震に遭遇している。
地震のあと、父親本人からはなんの連絡もなく、母親は八方手を尽くして安否を気遣った。李瑛根が死んだということが判ったのは、朝鮮の新聞、東亜日報か朝鮮日報に掲載された名前からであった。当時生死が確認できた、関東地方に在住、滞在していた朝鮮人の名前を新聞が掲載していたが、死亡者名が列記されていた中に〈李瑛根・京城府〉と書かれていた。手がかりはたったそれだけだった。
京淑の父、李瑛根の初めての日本への渡航は大正六年(一九一七)留学目的であった。明治法律学校(現明治大学)に籍を置いた。
李瑛根は大学へ入りたいという思いよりも、とにかく日本へ行きたいという強い思いがあった。留学に充分な資金が用意されていたわけではないが、留学という理由は、渡航が
最も簡単な方法であった。日本語に何の支障もなかった李瑛根は、生活費と学資を得るだけの仕事をし、学校との両立をさせることができたが、時代は、わけても朝鮮人留学生には学業だけに専念することを許さなかった。
大正七年(一九一八)十一月、欧州全域を巻き込んだ第一次世界大戦が終結をみると、惨害をふたたび繰り返すまいとする国際協調の機運が高まり、アメリカ大統領のウィルソンは、民族自決や、軍備の縮小などを謳った十四カ条の原則を発表した。民族自決という文言は、一九一七年に帝政を倒し社会主義国家を打ち立てたロシア革命の余波とともに、日本からの独立を願う朝鮮の知識人や学生に強い刺激を与えていた。
こうした背景から、日本に留学中の朝鮮人学生の間には、明治四十三年(一九一○)の日韓併合にはじまる日本支配からの独立の機運が盛り上がり、何らかの行動を起こす動きが急速に広まっていった。
李瑛根は取り立てて政治的というのではなかったが、数人の留学生と新聞配達の仕事を共有していたこともあり、留学生の集まりに誘われて参加することも多かった。しかし李瑛根のなかでは仕方なしの付き合い、付和雷同の思いがないわけではなかった。
留学生の交流の拠点となったのは、神田区西小川町(現千代田区西神田)の、在日本朝鮮基督教青年会館、通称YMCA会館である。学校の校舎のような横長二階建ての建物であった。
大正八年(一九一九)二月八日土曜日午後二時、在日朝鮮人留学生は具体的な行動を起こした。
YMCA会館に、降りはじめた雪の中をおして、在日朝鮮人留学生が学友会役員選挙の名目で集まったのは約六百名、祖国の独立、民族自決への思いに温度差こそあれ、願いは一点に収斂していた。満場の中、二・八独立宣言書が読み上げられた。熱気に包まれたYMCA会館は「大韓独立万歳」の声が会場を揺るがせる中、西神田警察署の警官隊がなだれ込み、「解散! 解散!」の怒号とともに修羅場と化し、主催者の二十名が逮捕された。
李瑛根は、学友会のメンバー、聴衆の一人として会場の中にいた。朝鮮人として思いは同じであり、格調高い宣言文に心を捉われはしたが、自ら進んで行動を起こすというところまでは考えなかった。自分なりの将来を描き、実現したいものに向かっていくべきだとの功利的な思いが強かった。そのためには逮捕投獄されることだけは避けなければならない。しかし留学生であるというそのことだけで、日本の警察からは常に監視され、行動は掌握されていた。二月八日の騒ぎから下宿がある地元警察の、刑事の目はさらに厳しさを増していた。
三月になると、朝鮮で起きた「独立万歳」を叫ぶ三・一独立運動(万歳事件)の騒擾に歩調を合わせるように、一週間に一度くらいの割合で、李瑛根の下宿地域を管轄する小石川富坂警察署の刑事から声をかけられるようになった。それは下宿近くの電信柱の陰からのこともあり、学校からの帰り道の舗道上であったりした。李瑛根は、後楽園そばの春日町の下宿と学校の往復を、よほどのことがないかぎり時間をかけて歩いて通学した。帰り道では、刑事はいつの間にか近づいてくると横に並んで、「いまからどこに行くのか?」とか、「誰と会うのか?」など、さり気なく同じようなことを訊いてくる。
「誰とも会いませんよ」素っ気なく答える。
春日町電停近くまでついて来ると、「またな」と言いながら、同じ道を戻っていくことを繰り返した。ひと月ばかりそんなことが続いたある日、
「ちょっと部屋の中を見せてくれないか?」
いつもの刑事が半ば強制的についてきた。
李瑛根はその刑事が煩わしく、返事をするのも億劫だったが、部屋の中に何か不都合な物はないかとすばやく頭を巡らせながら、断わることは得策ではないと判断して部屋に上げた。部屋のあちこちに目を向けながら一言も発しない刑事に、怯えと不安に押しつぶされそうになった瑛根は、何かを口にせずにはいられなくなった。
「刑事さんのお名前は何とおっしゃるんですか?」
「俺か? 俺は井関だ。聞いてどうする?」
「お名前ぐらいは……」
「小石川富坂警察の刑事だ。宮城県の田舎の生まれさ」
手持ち無沙汰げに、聞かないことまで言い、井関刑事は机のわきに積み重ねていた新聞を手にしながら
「こんな新聞読んでいるのか?」と言った。
「これは仕事で配達している新聞ですよ」
「そうだったな」
既に知っていることでも、一つひとつ確かめるように訊いてくる。なにを知りたいのかわからない。核心をついた質問をしないからだが、瑛根にとっては却って疑心暗鬼が生じ、背中を冷や汗がながれるような恐怖が湧いてくる。井関刑事が訊きたがったのは瑛根の交友関係であり、その一人一人についての情報であった。
部屋に上がり込んでくる回数が重なるにつれ、井関は自分の個人的な話さえするようになった。瑛根は、井関刑事を鬱陶しいと思いながらも、ときには話し込むこともあり、親しみさえ覚えるようになった。不思議な気分であった。親しみをもった理由はまた別にもあった。刑事が部屋を出て行くと、瑛根はひとりで思い出し笑いをした。刑事の名前の「イセキ」という発音は、朝鮮語では「このガキ」とか「この野郎」という意味なのだ。「井関さん」と言うたびに「このガキさん」「この野郎さん」と言っているようなものだ。思い出すたびに可笑しさがこみ上げてきて、ときには声に出して笑った。
井関刑事にも奇妙な感情が芽生えていた。まるで自分の弟にでも接するように、あけすけな自分をさらけ出してもいいのではないかと思え、李瑛根と何か共通するものを共有したいと思う感情であった。きっかけさえあれば一気に親しくなれるに違いない不思議な心境だった。
そんなお互いが似たような感情を交錯させはじめたころのことである。
井関が、卓袱台の上に雑然と置かれたノートのページに目を留めて瑛根に訊いた。
「おまえ、絵もやるのか?」
瑛根は勉強や読書に飽きると、一人暮らしの孤独を慰めるように、手慰み程度に身の回りの何か、たとえばマッチ箱や開いた本などをノートの隅にスケッチしていた。
「いたずら描きの、遊びですよ」
それらの絵は、手慰みのいたずら描きにしては写実的で精密に描かれている。
「それにしては上手いもんだな」
井関はあちこちノートをめくっていたが、何かを思いつめたような表情で瑛根に向き直りながら言った。
「ひとつだけ俺の頼みを聞いてくれないかな」
背広の内ポケットから手帳を取り出し、中に挟んでいた名刺大の写真を瑛根の前に差し出しながら
「ここに写っているのは俺のおふくろだ」五、六人の婦人ばかりが写っている集合写真の中の一人を指差して続けた。「死んだおふくろの写真はこの一枚があるだけで、仏壇に飾る写真もない。なあ、この写真を見て母親の似顔絵を大きく描いてもらえないものか。是非頼むよ」
瑛根には断わる理由も見つからないだけではなく、井関刑事の訴えるような真剣な顔に心動かされ、承諾した。
「少し時間がかかるかもしれませんが、やってみます。二ヵ月ばかりで」
約束した日から井関刑事は瑛根の身辺からぴたりと姿を消した。
刑事という職業特有の鋭い視線にそぐわない、垢抜けのしない朴訥とした風貌の井関が、完成した絵を見て喜ぶだろう表情を想像しながら、瑛根は丁寧に絵を仕上げていった。ほぼ二ヶ月が過ぎた六月初旬の土曜日、井関刑事が瑛根の下宿へ久しぶりに訪ねてきた。
「もう少しですが、なんとか描きあげましたよ」
写真とは違っているが、少し微笑んでいるように描いたことにも満足していた。瑛根にも納得のいく出来である。木炭と鉛筆、刷毛を使い、十号キャンバス大の画用紙に胸から上の肖像画を描いた。
絵に向い合った井関はひと言も発しなかったが、やがて瑛根に背を向け、手にした絵を畳の上に置くと頭を垂れて絵に見入っているようだった。上着を取ったシャツは背にへばりついていたが、大きく息をするのにあわせて肌から離れ、またへばりつくのを繰り返した。腕で汗を拭う風であったが、涙を拭いているようにも見えた。後ろ向きのまま井関刑事は呟くように瑛根に言った。
「おふくろさん、いるんだろう?」
「います、朝鮮にいますよ」
「何かと騒がしい世の中だ。おふくろさんも心配しているだろう。一度国へ帰って親に顔見せてきたらどうだ?」
「…………?」
「俺はもうおまえにつきまといたくない。俺の願いを叶えてくれた、心やさしいおまえが不穏な行動をするとは思えない。俺の担当区域以外へ、できれば朝鮮へ帰って穏便に暮らしてくれないか」
井関刑事は、振り向きもせず瑛根に背中を向けたまま、しんみりとしみじみ言った。涙を流している顔を見せたくなかったのだろう。
瑛根に里心がないわけではなかったが、卒業までは朝鮮へ帰れない。
その後、井関刑事を水道橋駅近辺で見かけると、軽い挨拶を交わすだけですんだ。
井関刑事は瑛根に、朝鮮に戻るときは必ず自分に声を掛けるようにと念を押していた。
「おれができることは、おまえが朝鮮へ帰るときには、東京で監視対象ではなかったと、朝鮮の警察に知らせることだ。それが絵を描いてくれたことへの感謝の気持だから」
李瑛根は大正九年(一九二〇)朝鮮へ帰っていった。
三
「オトさんは東京の大学を卒業して、朝鮮へ帰ってきてからオカさんと結婚したそうです。お祖母さまが教えてくれました」
「お祖母さんというのは、お父さんの方のお祖母さんでしょう?」
「ソです。お祖母さまも叔父さんも忠清道というところに住んでいましたから、オカさんが死んでから、わたしはそこへ行きました」
「叔父さんの家で育てられたのでしょう?」
「ソです。でもお祖母さまの家と往ったり来りしていました。お祖母さまの家には、永姫オバさんという人が一緒に住んでいました。でもわたしは永姫オバさんが嫌いでした。わたしに意地悪ばかりで、お祖母さまがいないときは、たくさんいじめられました」
「永姫オバさんという人はお父さんの姉妹なの?」
「わかりません。『おまえは倭奴(日本人の蔑称)だ、わたしは、倭奴は大嫌いだ』と言っていじめられました」
京淑には、不可解なことがあった。叔父が永姫オバさんのことを〈ヒョンス〉とか〈ヒョンスニム〉と呼んでいたことだ。〈ヒョンスニム〉は、〈お義姉様〉という意味だからだ。なぜ義姉なのか、子供の京淑にはまるでわからなかった。
京淑は永姫オバさんのことを思い出したくもないという。よほどひどいイジメだったのだろう。
「日本人は『チョーセンジン』と言ってバカにして、朝鮮人は『ウェノム』といっていじめました。私はどうして両方からいじめられるのですか?」
この不条理が、子どもながらも京淑には納得がいかなかった。
昔、同じようなことを聞いたとカズ代は思った。英語の勉強に通った、ハワイの教会の日曜学校での思い出だ。
ハオレ(白人)とカナカ(ハワイ人)との間に生まれた女の子が、教会の牧師の奥さんに訴えるように尋ねた光景を思い出すのだ。
「わたしはハオレ(白人)なのかカナカ(ハワイ人)なのか、どっちなんです? 学校の男の子が『おまえは、bat(コウモリ)だ』と言う。どういう意味なんですか?」
カズ代には〈bat〉という英語が印象深く脳に刻み込まれている。牧師の奥さんが何と答えたか覚えていない。
カズ代は京淑の問いに答える術がなかった。日本人朝鮮人のどちらからも疎まれるということに、カズ代は怒りさえおぼえた。
「オトさんが生きていれば高等女学校にも行ったかもしれません」
「生きていれば……? ヨッちゃん、あんた以前に変なこと訊いたね。私のお父さんは死んだのか、それとも殺されたのかって。誰かに何か言われたの?」
「いつも野菜を売りにくるアジュンマ(おばさん)が言ったのです。地震で死んだのではなくて、地震のあとに、たくさんの朝鮮人が殺された。だから私のオトさんも……」
関東大震災による家屋の倒壊や火災は、日本人朝鮮人に共通の災難であったが、関東地方に住む朝鮮人は、震災直後から始まった自警団の朝鮮人狩りの恐怖に晒された。
大震災の国難に際して、朝鮮人が方々で井戸に毒を投げ入れている、放火をしているという噂が、瞬く間に巷間に広がっていった。
罹災者は異常な心理状態におかれ、不安、恐怖にかられた日本人は、思い思いの武器、竹槍などで町内ごとの自衛組織、在郷軍人会や青年団などによる自警団を作っていった。
いわれなきデマであったが、潜在的に日本人の中にあった朝鮮人に対する警戒感や、差別してきたことの後ろめたさが、日本人に過剰なまでの反応を引き起こしたのである。
自警団は、朝鮮人とおぼしき人物に、日本人と識別するための問いを投げかけた。
「教育勅語を全部言ってみろ」「十五円五十銭と言ってみろ」
朝鮮人は往々にして濁音と清音を逆転して「チュウコエンゴチュッセン」などと発音した。それを逆手にとった、巧妙な判別の手段であった。
留学を終えて朝鮮に戻った李瑛根は、旧態依然とした朝鮮人の考え方や生活に物足りなさだけではなく、世界が変わっていく早さに東京と京城の格差を肌身に感じていた。東京に戻りたいと思った。しかし、ただ東京へ行っただけでは、朝鮮人にまともな仕事がないことも知っていた。
李瑛根は朝鮮に支店や出張所を置いている東京の会社はないものかと考えていた。
本社が東京にあれば渡航の機会もあるのではないか、どこかに伝はないかと思い巡らせていたが、ふと思いついて小石川富坂警察の井関刑事に手紙を書いた。
井関刑事からの返事は、軽い気持で書いた瑛根にとって思いがけない内容のものであった。日本橋の、繊維や小間物を扱う問屋の一つに声をかけてくれ、幸運なことにその問屋が朝鮮市場への販路拡大を考えているところであった。従来から釜山の二次問屋を通して、朝鮮で細々と商いをしていたが、京城への進出は喫緊のことであり、信用のおける人物であれば、釜山の二次問屋に話をつけるとの返信であった。井関刑事は、日本語も達者な瑛根を推薦、後押ししてくれたのだった。警察のお墨付きである。
李瑛根は、釜山の二次問屋の京城出張所という形で職を得た。京城の小売店への売り込みが仕事であるが、瑛根は日本人経営の小売店だけでなく、朝鮮人の小売店へも営業をかけ、二年半ばかりの短い期間に売り上げを増大させることができた。京城にとどまらず、平壌まで販路を広げることにも成功していた。しかし会社の業績を上げたことにただ満足しているのでは物足りなかった。東京に行くことを切に願い、好機を窺っていたのである。もっと端的にいえば、瑛根は日本人になりたいと真剣に考えていた。それはあり得ないこと、荒唐無稽なことだとわかっていながら、考え続けていたことである。儒教の規範にがんじがらめに縛られ、革新的だと思われる思想に触れても、結局は儒教世界の秩序へと帰っていく朝鮮の知識人や学生、どこまでも両班(特権階級)が中心にいる世界に、李瑛根は辟易していた。二・八独立宣言書、三・一独立宣言も格調高く謳いあげた、すばらしい理念の発露であるかもしれないが、結局なにも成し得ないではないか。
瑛根は、個人個人が自分の意志に基づいて、自分の能力を発揮できる社会への強い憧れをもっていた。そのためには日本へ、できることなら日本人になってしまいたいと本気で考えるようになっていた。
京淑の母林チヨと李瑛根が知り合うことになったキッカケは、釜山の出張から戻ってきた京城・南大門駅のホームだった。京城駅ができる以前のことだ。その日のホームは霧雨に濡れていた。
瑛根の前にいた若い日本人女性が、和服を装い、覚束ない足取りでデッキから段差のある低いホームに降りた途端、足を踏み外して倒れた。助け起こそうとすると、顔を顰めて立ち上がれない。
瑛根は、女性の荷物と女性が履いていた下駄を手に持ち、背に負ぶって改札を出、その足で人力車に乗せ駅近くの病院まで連れて行く羽目になった。人力車の車夫に手助けさせて病院の中まで女性を運び込んだ。
「転んで捻挫したみたいです。歩けないでいます。急いで診ていただけませんか」
瑛根が受付窓口で告げた。
「それではこの用紙に必要事項を記入してください。転んだときの状況も詳しく書いてくださいね」
日本人の苗字がついた町医者である。対応した看護婦は事務的に備え付けの用紙を差し出した。当然のことであるが氏名、住所、年齢、性別を記入する。瑛根は受け取った用紙を女性のところへ持って行こうとすると、自分の奥さんのことなのに、なぜすぐに書かないのかとでもいうように看護婦は怪訝そうな顔をした。
女性はよほど足が痛いのか「すみません、代わりに書いていただけますか」と言って顔を顰めている。
〈京城府初音町○○番地○○方、林チヨ、二十三歳〉
瑛根は言われるままに代筆した。
治療が終わると、看護婦は処方した薬を瑛根に渡しながら
「お大事に。奥さんにはご主人から説明してくださいね」と言い足した。
ご主人と言われて、瑛根は妙な気分であったがなにも言わずに病院を辞して、女性を家まで送り届けたのである。
多くの日本人が京城に住んでいるとはいえ、朝鮮人が日本人女性と懇意になるというのは珍しいことであったが、捻挫が縁で李瑛根と林チヨはいつしか同居するようになり、そして京淑が生まれた。瑛根にはチヨと一緒になることで、ひょっとすると日本人になれるかもしれないという、淡い期待と下心があったかもしれない。チヨは京淑の誕生を機に、仲居と芸者の兼業のようだった旭町の料亭の仕事をやめた。
しかし瑛根の死後、母親の林チヨは、南大門近くの旅館で、再び仲居をしながら京淑を育てていたが、昭和七年(一九三二)に突然亡くなった。コレラだったようだ。朝鮮人も多く住み、共同井戸のバラック長屋に住んでいたという。
「そのあと忠清道の叔父さんの家へいきました。叔父さんやお祖母さまに『おまえのウリマル(朝鮮語)は変だ』と言われました。わたしは京城で三年生まで朝鮮人がいく普通学校へいっていましたが、オカさんとは日本語だけで話しました。叔父さんに『学校へ行かせて』とお願いしましたが、行かせてもらえませんでした」
叔父は農業をしていたが、稲作の他に養蚕も兼ねていた。京淑は叔父の幼い子供二人の子守と家事の手伝いがあり、蚕の世話もさせられ、貴重な労働力として、学校へ行くことはできなかった。蚕を育てる桑の葉を納屋に運ぶこと、飲料水を外の井戸から運ぶきつい仕事も京淑の役目で、息つく暇もなかった。寝床は蚕小屋の一隅をあてがわれた。一晩中蚕の桑の葉を食む止むことのない音に苛まれ、眠れない夜を過ごすこともたびたびであった。寝床のそばには電気はおろか、ランプさえなかった。着の身着のままで寝床にもぐり込むと、いじめられたことの悔しさや寂しさに涙が溢れてくるが、昼間の重労働にいつの間にか温もりに誘われるように眠りこけた。十歳の京淑が背負っている現実はあまりにも重過ぎた。肉体的にも精神的にも耐えることの限界を、子供ながらに感じる毎日を過ごした。
四
「お義母さん、今日は朝鮮神宮へ行かなくちゃいけない日なんです」
夏子が着替えをしながら言った。
「何しに行くの?」
神社仏閣嫌いのうえに、数日前には朝鮮神宮のせいで警察にまで連れていかれたカズ代は、いまいましそうな口調で訊いた。
「この日にちゃんと行かないと、食料などの配給券をもらえないのですよ。夜はまた愛国班(隣保班・隣組)の常会が班長さんの家で……。窮屈な世の中になりましたね」
夏子は京城生まれの京城育ちで、父親が中学教師をやっている家庭の一人娘である。龍山にある公立京城第二高等女学校を卒業している。朝鮮で高等女学校生活を経験した女性は特権階級に属している。これまで、望んだものは過不足なく手に入れ、他人も自分と同じように考え、同じような感覚をもっていると思い込んでいる。
カズ代は自分の五十幾年かのこれまでと比較したり、京淑の境遇を考えても、夏子の、自分はまっとうで正統な考えをしていると信じて疑わない生活感に、どこか馴染まないものを感じていた。そんなときにカズ代には子供のようないたずら心が働く。
「カフィなんて飲めなくなるね。カフィの配給券はないものかね?」能天気を装って間抜けなことを言った。
「やめてください、そんな時代じゃないですよ」
夏子はキッとなった顔をした。
「そういうわけですから、子どもたちをお願いします。来年あたりはうちが愛国班の班長になる番かもしれません」
夏子は愚痴を並べ立てながらも、いそいそと出かけていった。
カズ代は京淑に顔を向けて舌を出した。目が笑っていた。
三歳の昌子が、京淑の二つに分けた長い後ろ髪の匂いを嗅ぐようにして、まとわりついている。京淑の背に負ぶわれて育った昌子は、その匂いを嗅ぐと安心するのだろう。
「これ柔らかいよ」
昌子は京淑の透きとおるように白い耳朶に触れている。
「昌子ちゃんは幸せですよ。女の子でも日本人にうまれ、両親に可愛がられて……」
「…………」
「わたしのオトさんは、わたしが生まれたときがっかりしていたそうです。『女の子か』と言って。でもこの家は二人続けて女の子でも、旦那さんも奥さんも何も言いません。朝鮮と日本は違いますね」
「男が生まれても兵隊に行って死んだら同じことよ」
「それでもオトさんは私を可愛がってくれたと、死んだオカさんは言っていました。日本の着物を着た人形を、誕生日にオトさんが買ってくれました。私はその人形をいつも抱っこして寝ていました。それなのに、忠清道のお祖母さまの家へ行ってから誰かが……」
ある日突然人形が見当たらなくなった。だれに訊いても知らない、心当たりがないという。
「永姫オバさんはいつも『この人形は顔が気持悪い、おそろしい顔している』と言って嫌っていました」
「お父さんが買ってくれたものだとだれでも知っていたの?」
「知っていました」
京淑は人形を桑畑の中で見つけた。無残に切り裂かれ、雨露に濡れて惨めに投げ捨てられていた。証拠はないが永姫オバさんの仕業に違いないと確信したという。
唯一繋がっていると思っていた父との絆がなくなったような気分に襲われ、人形をなくしたことよりも父親が遠くへ行ってしまったようで、そのことが京淑には辛く悲しいものであった。それでも京淑は、誰も咎め立てをせず、じっと耐えた。
トルチャンチ〈一歳の誕生日〉の記念写真だけは、どんなことが起きても手離さないと、京淑は小さな胸の奥に強く誓った。
「オカさん、この家は叔父さんの家に較べたらとてもいいです」
京淑は言った。雲泥の差があると言いたいのだろう。
「夜になると少し本を読む時間もあります。遅くまで電気つけていると奥さんに怒られることもありますが」
夏子は京淑に対して特別厳しいわけではないが、使用人としてのけじめはうるさいようだ。
「お義母さん、京淑に対してやるべきことはちゃんとやらせてくださいね。甘やかしてはいけません」
夏子はカズ代が京城へ来てから最初に釘を刺して言った。
「ヨッちゃんは一緒にご飯食べないの?」
カズ代は京城に来たばかりのころ、訝しげに夏子に訊いた。
「あの子は母親が日本人なのに、なにもかも朝鮮式なのです。京淑が食事するところ見ました? ご飯に汁物をかけるでしょ、それを匙でグチャグチャに混ぜて食べるんですよ。はしたない。昌子がマネすると困りますから」
京淑は給仕のために食卓の卓袱台と台所を行ったり来たりしている。主人の晩酌のお燗もつけなければならない。
家族の話は京淑にも聞こえているはずなのに、夏子は気に留める様子もなかった。
「熱燗は熱過ぎないようにね」夏子は同じことを毎日注意する。
「使用人を使って贅沢なものだね」
カズ代がもらすと明が弁解でもするように
「母さん、京城では大方の家がオモニやキチベを置いているんですよ。お小遣い程度の金ですみますよ。朝鮮人の若い娘だって、早々に仕事はありませんから、お互い様なんです。わたしの職場の同僚だって使っていますよ」
「そういうもんかね」
贅沢という言葉に夏子が強い目になって険しい表情をつくったが、カズ代は気づかないふりをした。
「朝鮮人の女は座って食事をするとき、片方の足を立て膝しているでしょう。正座ができないんですよ。昌子にお行儀よくして食事しなさいといつも言い聞かせているのに、京淑の真似したらそれも困ります」明が夏子に同調して言い足した。
明は夏子に媚びているようにしかカズ代には思えてしかたがない。そんなときもカズ代の天邪鬼が頭をもたげてくる。
「わたしも正座は苦手だよ、チェアがいいよ」
習慣の違いはどうしようもないとカズ代は言いたいのだが、郷に入らば郷に従うべきだという明夫婦の言い分は理が通っている。カズ代は黙るしかなかった。
京淑は家族の食事がすんで、台所の片隅で残り物の惣菜で食事をした。
自分もハワイのハオレ(白人)の家で家事手伝いの仕事をしたとき、一人キッチンでランチを食べていたことをカズ代は、京淑に重ね合わせて思い浮かべた。
ハオレ(白人)の食卓にあったローストビーフが口に合わず、バターを塗ったパンとコーヒーばかりを摂っていた。家に帰ると味噌汁にほっとしたものだ。後になってローストビーフが大好物になったことを思うと、カズ代は思い出し笑いがこみ上げてくる。
朝鮮の味が食卓に出ることのない長男一家の料理に、京淑は満足しているのだろうか、朝鮮の味が恋しくはないのだろうかと、カズ代は京淑を思い遣った。それとも日本人の母親と二人で過ごした十年弱は、京淑の味覚を日本人にしていたのだろうか。住み込みの使用人である京淑は嗜好をうんぬんするような立場にはない。またカズ代が京城へ来た昭和十五年(一九四〇)は、すでに食材を選り好みする時代ではなくなっていた。
青葉町の家には野菜の行商をするアジュンマ(中年の女)が、ひと月に数回は野菜を売り込みにきた。京城郊外の、往十里の農家の主婦で、季節の野菜を持ち込んでくる。新鮮な上に安いこともあって、夏子はアジュンマの上得意の客である。
買物の要領を覚えると、京淑がアジュンマの持ち込む野菜を選ぶようになり、京淑とアジュンマは親しさを増していった。
外に出ることの少ない京淑にとって、アジュンマの話は、街中の様子や出来事などを知ることのできる貴重な情報源でもあった。話し込んで長話になり夏子に注意されることもあったが、朝鮮語をしゃべる数少ない機会でもある。母親のいない京淑は、ときにはアジュンマに母親のように悩み事の相談を持ち掛けることもできる。
夏子もアジュンマを重宝していた。物資の統制で手に入りにくくなったものを欲しいときに、アジュンマは必ずどこかで調達してきた。編み物の毛糸であったりレース糸だったりを見つけ出してくれるのだった。
「この家の奥さんはわたしからたくさん買ってくださるからね」
口癖のように言うが、それだけが理由ではない。朝鮮のアジュンマは世話好きで情が深く、他人事にも無関心ではいられない。また自分が何を言われても馬耳東風の逞しささえも持っていてあっけらかんとしている。
夕食時の会話にこのアジュンマが話題になり皆で大笑いしたことがあった。
「タマゴをたくさん生む、自宅のニワトリが死んだという話のときなんだけどね」
夏子が可笑しくてしかたがないと言いながら話した。
「彼女はつたない日本語でわたしに説明するのは容易ではなくてね。日本語で雌鶏と言いたいらしくて、苦心惨憺して言うには『奥さん、ウリ(私の)家の、タマゴのお母さんが』と言うのが本当に妙を得た表現でね、私は噴き出しちゃった。あのアジュンマ、私好きよ」
それ以来みんなで〈タマゴのお母さん〉と呼ぶようになったという。
十八歳にもなった京淑のことを、今もアジュンマはわが子のように気にかけてくれていた。しかし京淑がカズ代の長男の家に住み込みで働くようになってからのことであるから、三年ばかりの知り合いにすぎない。
京淑が初潮をみたのは遅く、十五歳になってからのことであったが、京淑にはそれが遅いのかどうかという知識もなかった。子供から大人への変わり目の時期を、親身になって助言してくれる同性がだれもいなかった。そんな京淑には行商のアジュンマはありがたかった。アジュンマは処置の仕方から心構えまで微に入り細に入り教えてくれた。
「アジュンマ、お願いだから生理の手当てをする脱脂綿買ってきて。奥さんに言えばいいのだけど、その度に分けてもらうのが辛いし、主人だからどうしても遠慮してしまう。たくさん買い溜めしておきたいの」
「大丈夫。市場にいけばなんとかなる。休みのときに一緒に行ってあげるよ」
京淑の休みは月に二日程度で曜日が決まっているわけではないが、アジュンマは京淑の都合に合わせて東大門近くの朝鮮人の街、鍾路の市場へ連れていってくれた。生理のための下着さえ見つけ出して、さらに夜までつきあってくれた。
鍾路は朝鮮人の街である。歩道に並ぶ夜店を、売り物の品々を照らすアセチレンの匂いを嗅ぎながら、京淑は初めて鍾路の夜を満喫した。
その日は京淑にとってさらに嬉しいことがあった。普通学校(小学校)時代の親友韓玉順と再会できたことである。それもアジュンマが捜しだしてくれていた。
京淑と玉順は手をつないで鍾路の通りを何度も往ったり来たりし、朝鮮の料理を思う存分食べて楽しんだ。再会を約束して別れたが、これからはまた一人、悩みごとを相談できる同年配の友を得たことが何よりも嬉しかった。
再会の日から一と月も経たない初冬のある日、京淑の休みの日を見計らって、玉順が青葉町まで訪ねてきてくれた。話足りなかったのだろう。
夏子も、京淑の友人が訪ねてくるなど初めてのことだと言って、わざわざ本町の三越百貨店から洋菓子まで取り寄せて、もてなしてくれた。
京淑は夏子の思いやりに涙が出るほど感謝した。
昌子もまた玉順のふんわりと広がったチマ(スカート)に興味津々で、その中に入ろうとして近づいてくる。それが昌子の歓迎の意であり、微笑ましさが京淑には嬉しかった。
楽しいひとときを過ごして玉順が帰っていったあとに、ケーキでもてなしてくれた夏子が、間髪を入れず京淑に言い放った。
「京淑、あの娘がもってきた朝鮮漬け(キムチ)をすぐに捨てなさい」
「…………?」
京淑にはその意味が解らなかった。
鍾路で遊び、食事を共にしたときに、京淑が気を許して玉順に漏らした。
「久しぶりにキムチを食べたわ。家にはキムチがないの」
玉順は油紙と新聞紙に包んだキムチをお土産として持ってきた。
「オモニ(母)とわたしが漬けた自家製よ。おいしいんだから」
久しぶりと言った京淑の喜びようを忘れていなかった、玉順の思いやりの土産である。
霜を見るようになった十一月には、低い屋根の廂ほどにも積み上げられた白菜と、キムジャンと呼ばれる玉順一家挙げてのキムチ漬けの様子が、京淑には手に取るようにわかる。それなのに……。
「どこでどうやって作ったか得体の知れないものを食べて、赤痢にでもなったらどうするの。私たちは食べないわよ。あなたが自分だけ食べて病気にでもなったら、それだけじゃ済まないでしょう。赤痢は伝染するのよ」
玉順がいたときに、あれほど愛想のよかった夏子の剣幕に、京淑は身が竦んで返事もできなかった。
「朝鮮人が作った食べ物を迂闊に口にしてはいけません」
そのときの夏子の「朝鮮人が……」には侮蔑と悪意が含まれているように京淑の胸を抉った。孤独と口惜しさが溢れた。
「次に玉順さんに会うときには、本町でカステラかなにか、必ずお返しで持っていくんですよ。最近はお砂糖が少ないからカステラはないかもしれないね。そのときは缶詰かなにか持っていきなさい」
夏子はその場でお金を渡した。
夏子のおためごかし風で無神経な行為に、京淑は口惜しさと、夏子に対する怒りが渦巻いた。
「そんなことがあったの。夏子さんの言うことがわからないわけじゃないけどね」
カズ代は目を閉じて京淑の話に耳を傾けていたが、ハワイにいたときの朝鮮人との付き合いを思い返していた。
カズ代の家で作った梅干入りのおにぎりを農場の昼食時に分けて渡すと、朝鮮人はキムチやピンデトック(朝鮮風お好み焼き)をくれたものだ。互いに貧しかった。どんな衛生状態で作ったものかなど考えもしなかったと思う。近所に住むカナカ(ハワイ人)は大ぶりの、煮たタロイモをくれた。味よりも何よりも腹を満たすことが先決だった。
そんな質素な生活を知っているカズ代には、玉順の家のキムチが一家を支える大事な食料であることも容易に想像できた。
同じ京城府内にありながら、日本人と朝鮮人の間には生活環境、衛生環境にも大きな隔たりがあった。日本人の家庭には水道のみならずガスさえも通っている。片や共同の井戸水で生活し、電気もきていない家に住む朝鮮人も多かった。その事情を深く考えることもなく一方的に「朝鮮人は汚い、不潔だ」と言う。そこには日本人の自己中心的で、幼児的とさえ言える傲慢さが根強く蔓延っている。朝鮮人に対する優越感や差別意識が、もらったキムチを捨てさせることが当然と夏子に思わせていた。
五
カズ代が九州へ帰る日まで一週間ばかりを残した日曜日に、生まれた子供のお宮参りとなった。
次女は〈紀子〉と命名されていた。昭和十五年(一九四〇)、紀元二千六百年に因んだ名前である。日本の建国から節目の皇紀二千六百年に当たるとされた年で、国を挙げて祝いの行事が目白押し、国民の間にも晴やかな気分が溢れていた。ラジオからは日がな一日――金鵄輝く日本の…………紀元は二千六百年――奉祝国民歌が聞こえてきた。
お宮参りの着物はどうにか調えることができた。贅沢を慎む風潮のなか、カズ代が頼んでおいたものが本町の三中井百貨店呉服部から届けられた。
京淑は晴やかに着飾った紀子を愛しむように、まるで舐めるようにして覗き込んでいる。
「奥さん、紀子ちゃんを抱っこしてもいいですか?」
「いいわよ。ヨッちゃん急にどうしたの? いつも抱いているじゃないの」
「ほんとに、いつだって抱けるじゃないの」カズ代が口を挟むと、
「オカさん、紀子ちゃんがわたしの大事にしていた着物の人形みたい。ほんとに可愛い」
紀子を抱いている京淑は、口角を下げて泣きべそをかいたような表情をしている。
「京淑もこんなきわめて日本的な祝いごとのときは、日本人の血が騒ぐのかね」手持ち無沙汰に、女たちの準備ができるのを待っている明が能天気なことを口にした。
京淑の少女時代の悲しみを聞き知っていたカズ代は、明の的外れに苦笑した。
紀子は夏子の実家の祖母に抱かれ、タクシーに分乗して御祓いを受ける南山の中腹京城神社へ向かった。カズ代にとって初めての南山は好天に恵まれ清々しかったが、気持が弾むということはなかった。
「南山一帯には朝鮮神宮のほかに、今から行く京城神社や乃木神社、天満宮といくつもの神社があるんですよ。明治の時代から住んでいる夏子の両親が、京城府民の産土神は京城神社だというものですから。確かに京城にいる日本人の信仰を集めていますから、秋の大祭はたいへんな賑わいですよ。神輿だけではなくて牛車も出ますし、鉦や太鼓に三味線入りでね。内地のいろんな祭りが一堂に会したような……」
タクシーの中で明が、なにやら不必要に弁解がましく説明するのを、カズ代は聞き流していた。全く関心がないことだからだ。
「私の神社嫌いはおまえも知っとろうが。今日は夏子さんの実家に義理立てして、ついて来ただけ。正行が大病患って、病気が治りますようにとお百度まで踏んだ、御祓いもしてもろたけど、そんなことしても何の効き目もない」
「母さんの偏屈と天邪鬼はどうしようもないね。そんなことを夏子の両親の前で言わないでくださいよ」明が諦め顔で釘を刺した。
神主のもったいぶった祝詞の奏上や御祓いを、カズ代は白々しく眺めていたが、十五分ばかりの正座には辟易していた。横にいる京淑が、カズ代と同じように、モジモジしながら顔を歪めているのが可笑しくてしかたがなく、不謹慎に声に出して笑いそうになった。
〈おさがり〉にもらった絵馬、御守り、お喰い初めの箸などの一式は、京淑が大切に持ち帰った。見たことのない物の多い中に、京淑は御守りに目がいったが、金糸の刺繍の字が読めない。京淑はごく一部の字を除いて漢字の読み書きができない。普通学校で学んだのは初歩的なものばかりである。教科書の文字はカタカナ中心のものだったからだ。赤い小さな御守りは、京淑が母親にもらっていまでも大切にしているものと同じだ。災難から身を守ってくれるオマジナイが入っていると教えられていた。自分も紀子ちゃんと同じようにお宮参りに神社へ連れていかれたのだろうと思った。
お宮参りの翌日、九州へ帰る日を目前にしていたカズ代は、買い揃えた土産物の点検や、鞄に詰め込む荷物の整理に余念がなかった。どの土産をだれに渡すかまでメモに書きつけていた。カズ代の書く字も全部カタカナである。
「オカさん、わたし、お手伝いします」
何かをキッカケに京淑はカズ代のそばに居たがった。
「わたし、オカさんがいなくなると寂しいですよ。もっともっと話がしたいのに……」
「ヨッちゃん、買い忘れたものがあるから本町まで行こうか」
さほど大事な買物ではないが、カズ代は京淑が二人きりになりたがっているのを察知していた。
「夏子さん、少し買い足りないものがあるから、ヨッちゃん連れて本町へ行きたいけど、あなた一人で大丈夫?」
夏子はしぶしぶながら了解の返事をした。
カズ代と京淑は、警察へ連れていかれたあの雨の日以来、久しぶりに浮き浮きした気分で錬兵町の電停へとゆるやかな坂道を下っていった。
「南大門前ではちゃんとお辞儀をするのよ」
自分はその気もないのに、カズ代は茶目っ気たっぷりに京淑に言い、顔を見合わせ笑いながら電車に乗った。
「わたしはカフィ飲みたいと。それも三越百貨店のレストランでね」
三越のレストランではその場で豆を挽いたコーヒーを出してくれて、京城で一番美味しいということを明からの話で知っていた。三越の〈原豆コーヒー〉は京城に住む人たちに広く知られていた。
「福岡にはもう美味しい本物のカフィはなか」
京淑には、カズ代が機転をきかせて、二人だけで話ができるように連れ出してくれたことがわかっていた。京淑は意を決してカズ代に言いたいことがあった。
――もやもやと気持が疼いていたことを、オカさんはわかっていたのだ。
京淑はカズ代の優しさが身に沁みた。
「二丁目の朝鮮館へ行けばたいていのものは揃うでしょう。さっさと済ませて早く三越のレストランへ行こうね」
朝鮮館は異国情緒を満喫できるお土産専門店であるが、朝鮮館で京城名所絵葉書と、チマ・チョゴリ姿の女性の刺繍が施されたハンカチを買い求めると、早々に三越百貨店へ向かった。不足の土産物の買い物は口実にすぎない。カズ代の目的はコーヒーである。
「たったこれだけですか?」
京淑は呆気に取られた顔をしている。
「そうよ。夏子さんには『欲しかったものをあっちこっち探したけど気に入るものがなかった。がっかりよ』と言っとけばよかと。カフィ飲むことと、ヨッちゃんと話をすることが目的なんだから」
京淑は茶目っ気のあるカズ代をますます好きになったうえに、カズ代に、大きなふかふかのタオルを買ってもらったことが嬉しかった。
「わたしはアメリカの柔らかいタオルが大好きだけど、内地にも朝鮮にもあまりいい物がないね」
「このタオルふわふわで気持いいですね」
「そうでしょう。少し高いけど、柔らかいタオルは私のささやかな贅沢なの」
京淑は大事に使おうと思った。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んで
「ほんとに美味しかよ。帰りに豆をたくさん買っていくよ」
原豆コーヒーは口の肥えたカズ代を満足させた。京淑はアップルパイである。
「明後日帰るからね。ヨッちゃん、私に話足りないことがあるんでしょう」
カズ代はさっそく水を向けた。
少し俯いて言おうかどうしようかと躊躇している。しばらく沈黙が続いた。
「思い切って言います」
周りのテーブルを気にするようにカズ代に顔を近づけた。
「オカさん、わたしを内地へ連れていってください」
カズ代は驚かなかった。京淑がひょっとすると何か重大なことを考えているのではないかと、ほんのすこしではあるが察していたからだ。
「東京で死んだというオトさんが、地震のときに死んだのか、殺されたのか知りたいのです。わたしには忠清道の叔父さんしか身内がいません。だけど、親も兄弟姉妹もいませんから独りぼっちと同じです。わたしは朝鮮と日本の合いの子です。どちらか片方になりたい。できることなら日本人になりたい……」
「……どうして日本人になりたいの?」
「朝鮮人は日本人の顔色をみて、びくびくしながら生きています。そのくせ朝鮮人だけのときは、両班の家柄かどうかとか、身分や階級をとても気にしながら生きています。また男は女を一人前なんて思っていませんから、女は結婚してからもどんな無理なことを言われても、男や嫁ぎ先の両親のいう通りにしなければいけません。朝鮮の女は一生だれかに従って生きていくしかないのです」
カズ代は二杯目のコーヒーを注文して、京淑に先を促した。
「わたしは七年間京城の日本人の家で働いて、日本人の奥さんや女の子を見てきましたが、日本人の女たちは、もし朝鮮の家だったら、死ぬほど叩かれたり、殴られるようなことを男の人に言っても平気で、なにもされませんでした」
理不尽なことを強要されても女は何も言えない――それが朝鮮人の社会だと京淑は言っているのだ。
ハワイで育ち、アメリカ人の家庭や夫婦を知っているカズ代には、朝鮮人、日本人、アメリカ人の女性の境遇や待遇の違いがよくわかる。アメリカ人が人間の尊厳やレディーファーストに敏感であることに較べれば、日本や朝鮮の女のなんとみじめなことか。それでも京淑から見れば、日本人の女は朝鮮の女よりもはるかに大切にされているという。
「オカさん、これを見てください。どんなものが入っているのか気になってときどき見ていました」
手提げ袋から御守りを取り出し、中から小さく折り畳んだ紙を引き出して広げた。神社の御札とは別の、鉛筆で書かれた拙い文字が書き並べられていた。
「わたしは漢字を少ししか読めません。何と書いてありますか?」
瞬きもせずにカズ代は紙の字面に見入っている。住所と名前が書かれている。
――福岡縣八女郡上廣川村大字○○八十九番地 林佐吉――
「お母さんの名前は何というの?」
「ハヤシ チヨです」
林佐吉というのは京淑にとっては母方の祖父か伯父であり、住所は母親の生まれ育ったところ、もしくは本籍ではないのか。
京淑が肌身離さず持っていた御守り袋には〈久留米水天宮〉と刺繍されている。久留米と八女郡上廣川村では隣接しているようなものだ。
母親のチヨは、京淑出産の折に、出身地一円で信仰を集めている子どもの守り神、久留米水天宮の御守りを求めたものだろう。幼い京淑を連れて実家を訪れ、水天宮へ足を向けたのかもしれない。しかしカズ代の勝手な想像であるが、朝鮮人との間に子を成すなどもってのほかと、田舎のことゆえ石もて追われるように朝鮮へ逃げ帰って来た。それでも京淑のことを考え、何かのときのために自分の実家の住所を書いた紙を、御守り袋の中に忍ばせておいたのであろう。滅多なことでは袋の中を見てはいけない、本当に困ったときに見るように言っていたというから、母親は自分の運命、死さえも予知していたのかもしれない。
「ヨッちゃん、あんたのお母さんはたぶん福岡の人だよ」
「東京は福岡から近いですか?」
京淑はよほど父親のことを知りたいようだ。
「遠いよ。福岡から汽車で二日がかりだよ」
カズ代は福岡へ帰ったら機会を見つけて、八女郡まで足を運んでみようかと考えた。自分の家がある筑紫郡から南へ四十キロばかりであるから、日帰りで行くことができるはずだ。
六
李瑛根が二回目に東京へ行ったのは、大正十二年(一九二三)三月である。
綿製品や小間物の売り込みに、京城や平壌の小売店を回る中で、多くの情報を得ることができた瑛根は、どうしても東京へ行かなければと考えるようになった。自分で事業をやりたいという思いが募るばかりである。繊維製品を売り歩きながら瑛根が目をつけたのはミシンである。
「うちのお客さんで最近ミシンを買った人がいてね」
京城・本町の洋品店主の話がキッカケであった。さらに瑛根にとっては貴重な店主の一言があった。
「買ったはいいが、たびたび故障するのには閉口すると言っていたよ」
他愛ない雑談から、瑛根は東京へ行くことを決心した。
前年の十二月には、日本への渡航を希望する朝鮮人は、旅行証明書なしで渡航できるようになった緩和措置も、瑛根にとっては千載一遇の好機であった。将来は朝鮮でもミシンが普及する。しかし不具合が生じたときに修理する技術がなくてはミシンの販売にも限度があるのではないかと考え、修理できる技術を身につけなければ意味がないことに思い至った。
修理を学ぶところは、日本橋横山町の取引問屋の伝で容易に入り込むことができたが、瑛根には東京ではなによりも先にしなければいけないことがあった。瑛根は小石川富坂警察署の井関刑事を訪ねた。
「また来たのか」
井関は冗談気味に嫌味を言いながらも瑛根との再会を喜んでくれた。
「もう変な運動に関わるんじゃないよ」
井関は釘を刺すことも忘れなかった。
「井関さんの手を煩わせるようなことはしませんよ。学生の時に一度、今の仕事のキッカケを作っていただいたことで二度迷惑をお掛けしましたからね」
大正十二年(一九二三)九月一日は土曜日、仕事も半ドンで瑛根は午後から浅草へでも出て、ようやく普及しはじめて話題の的になっている活動写真を観ようと楽しみにしていた。ミシンについての知識、技術もほぼ習得できた。京城へ帰る頃合だと考えていた時期である。
八丁堀のミシンを修理する小さな木造の平屋建て工場にいて、後片付けが終わったときに激しい縦揺れが来た。建物全体が荒れた海に翻弄される船のように揺れ、棚の工具類や部品が宙を飛んだ。土間が大きく波うち、瑛根は押し流されるように倒され、壁に打ちつけられ、脳震とうで意識を失った。長い時間、ほどよい暖かさの布団の中で眠っているのではないかと思っていたのは、ほんの三十秒か一分に満たないことだった。これまでに聞いたことのない、腹に響くような地響き音が、間断なく続く。瑛根はミシン台の僅かな隙間に横たわって生きていることに気づいた。屋根が崩れ落ちて目の前に迫っていた。
倒れ掛かった僅かな板塀の間から這い出すと、見慣れた光景の家並みがそっくり消えてなくなり、遠くまで見渡せたが、舞い上がる土埃で霞んでいる。すでにあちこちに紅舌のような炎が上りはじめていた。このままでは火事になり、炎と煙に包まれてしまい、動けなくなる。広い場所へ逃げようと咄嗟に判断すると、宮城(皇居)前広場を目指して歩きはじめた。途中、倒壊した建物の下から助けを求める声が四方から聞えてきたが、自分のことで精いっぱいである。荷馬車に繋がったままの馬さえも潰れた家屋の下に横倒しになり息絶えていた。小さな揺れが続いたかと思うと、どこからか「また大揺れがくるぞ」という声が聞こえた。
鍛冶橋まで三十分ばかりのいつもの倍近い時間がかかった。土埃と重なるようにして、銀座方面にもすでに炎と黒煙が立ち昇っていた。道に散乱した瓦礫に歩くこともままならなかった。靴が脱げていなかったことに感謝した。
瑛根はとにかく内濠に沿って筑土八幡そばの下宿へ急いだ。下宿の家があるのかどうかさえ定かではないが、そこしか行く所がない。桜田門、半蔵門を経て、飯田橋から津久戸町へ辿り着いたときは夕刻になっていた。
その夜はわずかな夜具を持ち出し、余震を怖れて、小高い丘になっている筑土八幡社の一隅で下宿の仲間とともにまんじりともせずに一夜を過ごした。
翌九月二日の昼過ぎ頃になって、八幡社境内に避難している人々の間になにかただならい雰囲気が流れはじめ、瑛根には聞き捨てならない話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。
――朝鮮人……毒を……放火……、あちこちで顔を寄せ合って囁き合っている。
同じ下宿に住む日本人学生が、聞き込んできた内容を瑛根に耳に口を寄せた。
「李さん、『朝鮮人がこの機に乗じて暴動を起こそうとしている。朝鮮人は見つけ次第片っ端から殺せ』と言っていますよ。ここは一旦下宿に戻ったほうがよさそうですよ」
瑛根にはそれがどういう意味かわからなかったが、学生の忠告に従った。
境内から見渡すと、神田方面は広い範囲で空を覆う黒い煙が立ち昇り、火の手はいつ飯田橋まで迫ってもおかしくはなかった。
夜半食べるものもなく、下宿の部屋で身を潜めるようにしていた瑛根を訪ねる者があった。
家主の奥さんが、階下から瑛根を呼んだ。
「富坂警察の、井関刑事の使いだと言っているよ。あわてている様子だけど」
朝鮮人を捕まえろ、殺せという声に怯えていた瑛根は、自分と井関刑事の関係を知っている者が、刑事の名前を騙っているのではないかと疑心暗鬼になり、すぐには階下に下りていけなかったが、家主の奥さんが、走り書きされた紙片をもって来た。
――急ギ来署請フ、相談アリ 井関――と書いてあった。井関刑事の筆跡に見覚えがあった。
瑛根は頭から被れるものを手にして、小石川富坂署と書かれた提灯を持った使いの者についていった。飯田橋から大曲、安藤坂を通り富坂警察署まで一時間近い時間を要した。
「遅いじゃないか。おまえに早速頼みたいことがある」
井関刑事は有無を言わせず、瑛根の袖を持って上司のそばまで連れていった。
「李瑛根という朝鮮人です。絶対信用できるやつです」
井関は一方的に瑛根を上司に紹介した。
「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだり、放火をしているという噂が流れているのを知っているか?」
「知っています。そんなことをするはずがありません」むきになって答えた。
「なんで私が井関さんに呼ばれなければいけなんですか?」
「わかっているよ、まあ落ち着け。今話をするから。おい、無事でよかった。ほっとしたよ」
「井関さんこそ」
「今からすぐ裏の傳通院へ行く。ついてきてくれ」
傳通院は徳川家の菩提寺の一つ、徳川家康の母堂、於大の方の法名に因んだ名刹である。
「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている、放火強盗をしているという流言が瞬く間に広がると、在郷軍人会を中心に朝鮮人狩りが始まった。行き所を失った朝鮮人が助けを求めて警察に駆け込んでいる。しかし日本語を話せるやつが少ないのだ。通訳をしてくれ、今度はおまえが俺を助ける番だよ」
親しみのある眼差しには、瑛根への信頼が込められている。
「俺の言うようにしろ、悪いようにはしない。署長にも言ってあるよ。頼むから協力しろ、おまえのためだ」
「私のため……? どういうことですか?」
「わからないのか。いちいち俺に言わせるな。俺ができる精いっぱいのことだ」
「…………」
「ここは警察だ。どんなやつが来てもおまえを守る」
以心伝心が伝わらない朝鮮人の李瑛根に、井関はもどかしさを覚えていたのだろう。
「おまえを守る」と言った井関の心配りに瑛根は涙ぐみそうになった。ありがたいと正直思った。下宿にいたのでは、瑛根が朝鮮人であることは周りが知っている。いつ不測の事態に陥るかわからない。何処に身を寄せようかと自問自答しているところだった。もう朝鮮人でいることはたくさんだとさえ思いはじめていたのだ。
傳通院までの五分間ほどの間に、瑛根がやることを井関は手短に伝えた。
保護を求めてきた朝鮮人の名前、住所、何をしているのか、朝鮮の住所などを聞き出すこと、むやみに騒ぎ立てないように伝えることなどが瑛根の役目であった。
山門の両脇に二人の制服の警察官が立っていた。
「戦争でもないのに、どこの馬の骨かもわからないようにして朝鮮人であれ誰であれ簡単に人間が殺されてたまるか」
井関は独り言のようにぶつぶつ呟きながら傳通院の本堂へ入っていった。
「ここに匿われているやつらのことの他に、知り合いの朝鮮人で、死んだ人間のことも判れば、それも聞いておいてくれ」
井関はそれだけ言い置くと足早に署へ戻っていった。
翌日から瑛根は聴き取りを始めていったが、その人数は増えるばかりである。
この時期朝鮮人学生は夏休み帰省中の者が多く、単純作業や土木工事の労働者ばかりである。字が書けず、読めないという者が少なくなかった上に、日本語がほとんど分からないという人間もいた。情報からも遠ざけられ、恐怖ばかりが膨れあがり、途方に暮れて藁をもすがる思いで警察に駆け込んできたと思われる。
瑛根は通訳というよりも彼らのよろず相談窓口となっていたことから、聴き取りの書類作りを警察に一任されているようなものだった。
皆がみな、朝鮮の家族への連絡の方法を知りたがった。一刻も早く無事を知らせ、いつになったら帰省できるかということに相談の内容は一致していた。しかし、日本政府はこの未曾有の事態に戒厳令を布き、朝鮮と内地の往来を極端に制限した。朝鮮人による放火暴動などの流言蜚語に反応した自警団の、朝鮮人捕縛、殺戮などの動きが、朝鮮に伝わることを恐れていたためであった。あからさまに朝鮮内に情報が伝われば、大正八年(一九一九)の三・一独立運動が再燃しかねないと日本政府は懸念した。
瑛根の聴き取りは、井関に言われた以上のものであった。匿われている同胞の名前、住所だけではなく、働いていた場所や仕事の内容までも克明な記録を作っていた。
「これだけ詳しく聞いているとは思わなかったよ。おまえ刑事になれるよ」
井関は冗談まじりに瑛根を誉めた。
「近々朝鮮の新聞社が取材に来ることになっている。作ってくれた名簿が役に立つよ」
事務的に漏らした井関の一言であったが、瑛根には頭の片隅にひっかるものがあり、何か自分にとって重大な意味のある暗示のように思われた。何かを考え始めていた。それは聴き取りの中に、李瑛根と名前に一字違いの死亡した人物がいたことに関係していた。印象的だっただけでなく、もつれた糸のようにして頭を離れなかった。
李暎根といい、自分の〈瑛〉と〈暎〉の僅かな違いである。同じ飯場にいた者が李暎根の死亡を確認できていた。京畿道楊平郡の出身で三十歳位だという。
一閃するものがあった。
――東亜日報や朝鮮日報に渡るであろう死亡者リストの中で〈暎〉を〈瑛〉に書き換えてしまえば自分が死んだことになるではないか――
李瑛根は忠清道の出身であるが、現住所は京畿道京城府だ。新聞を見れば、〈李瑛根・京畿道〉ならおかしくはないはずだ。死亡者の数さえ把握されていないほどの大災害であれば、どこでどう死んだかなど捜し当てることは不可能に近い。自分はそのまま忘れ去られてしまうに違いない…………。
瑛根の頭の中でさまざまな思いが揺れる蜘蛛の巣のように広がっている。
――忠清道の母親、弟それに永姫。死亡とわかれば、地面を叩いて慟哭するに違いない。
――チヨと京淑のことは、決して取り除くことのできない、頭上を覆った岩石のような測り知れない重圧である。悲嘆に暮れるチヨの顔が一生付き纏うことだろう。どんな言訳も通用しない。誰も知らない遠い世界へ逃げて行き、朝鮮人でも日本人でもない無色の人種になれないものかと、意味のない稚気じみたことを考えてきた。しかしどんなに良心の呵責に苛まれようと、決断しなければ今までと変わることなく一歩も先へ進まない。あり得なかった荒唐無稽な空想が現実に変わる。
瑛根は日本人になろうと決心した。悪魔と言われようとどうしようと、今は日本人に成り変わる千載一遇の好機だ。
――チヨは自分の妻でもなんでもない。朝鮮人が日本人の女を入籍するなどあり得ない。
――永姫は確かに法律上の本妻だ。自分が十三歳、五歳も年上の永姫と有無を言わせず結婚させられた。いまだに残る朝鮮の早婚の風習、しかも親同士が決めた、自分の意に沿わない他人事のような結婚であり、夫婦であった行為は十指に足りず、子を成したわけでもない。
――この機に乗じて日本人になってしまうことは、しがらみや束縛から解放されて、これまでこの世に存在しなかった新しい人間が生まれることである。その人間が社会に有用な働きをすればいいではないか。
瑛根は都合のいい理屈かもしれないが、千載一遇とはそんなものだと勝手に自分自身を欺こうとしていた。
震災から十日も経ったころ、瑛根は井関に訊いてみた。
「区役所も燃えてしまったところは戸籍などの台帳もないでしょうね。これから役所はどうするんでしょうか?」
「俺にもわからないが、生き残った者が役所に行って申告することになるだろうよ。筆頭者が死んでいれば、残った家族のだれかが世帯主となって新しく台帳を作るんだろうな」
李瑛根は、ミシン工場主の一家三人全員が死亡したことを知った。
――工場主の苗字で申告すれば日本人になれるかもしれない。住所も世帯主である工場主の名前もわかっている。その生き残った家族に成りすませばいいのではないか。戸籍だけ作ってしまえば、別の所に住み、転居を繰り返せば追跡されることはないだろう。工場主の名前が、朝鮮人にはない漢字三文字であることも好都合だ。工場主の〈松井田〉を名乗ればいい。
李瑛根は、瓦礫が放置されたままの中にできた仮設の日本橋区役所に早々に出向き、〈松井田英助〉と申告して、日本橋亀島町に戸籍を持つ日本人松井田英助となった。無意識のうちに〈英〉という漢字を名前に入れていた。申告書に書き入れるときには手が微かに震えた。生計の目途が立てばチヨと京淑を呼び寄せればいい、それまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。
七
カズ代は九州へ帰る関釜連絡船の中にいた。
長男の明は奮発して一等船室を予約してくれた。京釜線の列車が車体に白線の入った一等車であれば船も一等船室である。
「ボーナスをもらったばかりです。これくらいの親孝行、贅沢はさせてください」
明は、役所を午後の休みをとって京城駅へ見送りに来てくれた。総督府の権限を生かして、数少ない一等の席を用意したのかもしれない。ラジオはもちろん車内電話まで設置された時代の先端をいく列車だ。
京淑が一緒について来ていたが、唇を左右に強く引いて、今にも涙がこぼれそうな顔をしていたのが印象的だった。素直でいい娘だとカズ代は改めて心に刻んだ。
「ヨッちゃん、また会えるから、元気でいるのよ」
京淑はカズ代を見つめ、黙って頷いた。
カズ代は関釜連絡船が下関に着くまで、京城で京淑と話したことや本町へ出掛けたときの情景などを、同じ映画を繰り返し観るように反芻していた。短い京城生活の中で、さまざまな出来事があったが、一つひとつの情景が、頭のアルバムに静かに並んでいる。
船室の窓から見える海は凪いでいる。海面に映った満月に近い月がわずかに揺らいでいる。静かだ。
――私のオトさんは死んだのですか? 殺されたのですか?
――私は朝鮮人と日本人のどっちですか?
――どちらか片方になりたい、日本人になりたい……。
京淑の愛嬌のある日本語がカズ代の耳朶に染み付いて離れない。義理も約束もないのだが、大きな宿題を持ち帰っているような心持ちである。しかしそれはカズ代が自ら進んで自分の中に持ち込もうとする課題のような気もする。どうしたら京淑を日本へ連れて来ることができて、どうすれば日本人になる手助けをすることができるのか。カズ代には腹案がないわけではなかったが、それは京淑の意向を無視した、自分勝手な妄想だと打ち消した。四男の正行と京淑を結び付けようとする、母親としての、わが子可愛さゆえの一方的な夢想であった。
正行は片足の不自由な松葉杖生活を余儀なくされているが、家近くの二日市武蔵温泉の旅館で経理の仕事に就いていた。カズ代は正行の小学校時代を毎日背負って通学させた。雨の日にはリヤカーに乗せて学校の送り迎えをした。長じてからは正行には机に向かう仕事しかないと考え、書道の修練を積ませ、簿記の勉強をさせた。旅館の経理事務の仕事にありつき、なんとか独り立ちできるまでになった。しかし不自由の身の正行が結婚できる、嫁にきてくれるような女性がいるとは思えなかった。
――京淑と。自分がもし京淑であったならば、そんな結婚を承諾するはずがない……。
朝、定刻の七時十五分に関釜連絡船金剛丸は下関港に着岸した。
船の中では京淑のことばかりを考えていたような気がする。京淑が日本へ来る最も確かな手立ての第一歩は、故母親の実家を訪ねることである。なにかきっかけが掴めるかもしれないと淡い期待を抱いた。とにかく一度その住所を訪ねてみることだ。
福岡縣八女郡の、書き留めておいた住所をカズ代が訪ねて行ったのは、昭和十五年(一九四〇)十月の初めである。京城から帰って三ヶ月の月日が経っていた。
九州鉄道(現西鉄)二日市から久留米で乗り継ぎ、福島線の路面電車で川瀬というところまで行った。約一時間ばかりで、そこからは三十分ほど歩くしかなかった。
手ぶらで訪問するわけにはいかない。茶菓子となる甘いものがいいだろうと思い、久留米の旭屋デパートに立ち寄り、佐賀県の名物小城羊羹を買い求めた。
石ころに足を取られながらも、やっとの思いで八女郡上廣川村大字○○八十九番地の、チヨが書いた住所へ辿り着いた。
大きな家ではないが、瓦屋根の縦長の家が小高い山の裾に建ち、家の前に並べられたこげ茶色の甕の傍で、五十がらみの男が立ち働いている。警戒するようにカズ代を見た。
「ちょっと伺いますが、こちらは林佐吉さんのお宅でしょうか?」
「そうですが、佐吉はだいぶ前に死にました」
「失礼しました。私は二日市の長谷辺というものですが、林チヨさんのことで訪ねてきました」
「…………」
「チヨさんは亡くなられていますが、娘の京淑さんに聞いて来ました」
男は一瞬顔が強ばったようだった。
「そんな名前の人は知りません」
「ちょっと待ってください」
カズ代は男の言葉を遮るようにして、京淑と会った経緯を一方的に掻い摘んで話した。
「京淑さんが持っている久留米水天宮の御守り袋の中に、お宅の住所が書いてありました……」
言逃れるのは無理だと観念したのか、
「チヨは私の妹ですが、死んだ佐吉が勘当しましたけん、もうこの家とは関係なかです」
男はそれだけ言うと、甕に渡した棒に吊り下げている糸の束を両手に持って、甕の中で上げ下げしている。久留米絣の材料にする糸の藍染をしている。それが仕事のようだ。
家の前には、黄色に色づきはじめた収穫間近の稲田が見える。
「一つだけ教えてください。チヨさんは、生まれた子供を連れて里帰りされたのですか?」
「…………」
わずかに頷いたようにも思えた。寡黙というのではない。もうチヨのことには触れて欲しくないという頑なな思いが表情や素振りに出ている。
「娘の京淑さんは十八歳になりました。もう立派な大人ですし、素直な上になかなかの美人です」
「…………」
微かに表情が動いて、聞き耳を立てているように見えた。カズ代はさらに続けた。
「両親共に死んでしまって、近しくできる身内はだれもいません。そんな京淑さんの願いは、何とか日本人になる方法はないかということです」
京淑の伯父は
「もうこらえてください。こんな田舎では朝鮮人との合いの子なんて、世間の恰好の、噂話の種にされるだけです」
絞り出すようにして言うと、繰り返して
「これ以上は……ほんなこつ(本当に)……」こらえてくださいというのが精一杯だった。
――もう、いくら話しても埒があかない……。
カズ代は持参した手土産を、脇に伏せられた甕の底の上に置くと、その場を辞した。
御守り袋の中の紙に書かれた住所がチヨの実家であること、京淑の伯父が健在であるが、京淑の血縁者は京淑が日本人になるための手立て、助けにならないことが、予想されたこととはいえはっきりしただけでも、八女郡まで足を運んだ価値があるとカズ代は自分を納得させた。
事の一部始終を事細やかに書いた手紙を、明と夏子、京淑の三人宛てに、八女茶と小城羊羹の小包にして送った。
京淑から、思いがけないカタカナばかりで書かれた返事が届いた。
――オカサン、ゲンキデスカ、ワタシワ ゲンキデス。オカサンテカミ(手紙)ヨミマシタ。ヨカン(羊羹)モタベマシタ。トテモウレシカッタテス。オカサンニワ、ワタシノオトサン、オカサンノコト タクサンハナシマシタ。ワタシワ、ナイチ(内地)ニ、オカサンノ オニサン(お兄さん)ガ、イルノテ イチドアイタイテス。ソレカラ ヤパリ(やっぱり) オトサンノコトヲシリタイテス。オクサ(奥さん)ワ、ナイチ(内地)ノシンブン タスネビト(尋ね人)ノ ココク(広告)オ ダシタライイトイイマス。デモ、ナニオカイタライイカ、ワカリマセン。ナイチニイテ(行って)シラベタイテス。サヨナラ ヨシ ヨリ――
消しゴムで消して、何度も書き直された文面に、カズ代は胸が詰まった。拙い文字に京淑の懸命な思いが滲んでいた。
八
往復した手紙から一年半ばかりが過ぎた昭和十七年春、京淑は、福岡縣筑紫郡のカズ代の家にいた。思い悩んだ末、カズ代が呼び寄せたのである。
カズ代の夫忠一は大工の棟梁として、通いの大工職人三人と、国民学校(小学校)を卒業して二、三年の内弟子二人を抱えていたが、京淑のことをカズ代に聞かされていて、カズ代の手助けとして住まわせたらいいと、いとも簡単に決めた。
建築の現場は、ときには家から遠くにあり、仮設の飯場住まいをすることもある。カズ代は飯場の賄い、内弟子の世話も、足の不自由な四男正行のこともあって大変である。
「おまえも年だし大変だ。娘っ子一人ぐらい食い扶持が増えてもたいしたことはなか」
夫の言い分であるが、カズ代夫婦には正行の嫁候補という下心もなくはなかった。
内地へ行く決心をした京淑の心の奥底にあるのはただ一つである。父瑛根の、事の真偽を確かめること、それがすべての始まりである。
カズ代の助けを借りて、地元九州の新聞社へ父親の死因確認の協力を求めたりもしたが、何の手掛かりも掴めなかった。東京で死んだことだけがわかっている。正行も問い合わせの手紙を書くことで協力を惜しまなかったが、埒があかないまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。
昭和十八年(一九四三)暮れも押迫った日、協和会の幹事役の男が京淑を訪ねてきた。
協和会は、内地(日本)に住む朝鮮人対象の管理を目的とし、国に対する協力を要請された御用組織であり、顔写真が貼付された協和会会員証の所持が義務づけられていた。会員証がなければ生活物資の配給券ももらえず、朝鮮との往来もできない。会の事務所は所轄の警察署内に置かれ、特高(特別高等警察)内鮮課員が幹事を兼ねている。協和会は特高内鮮課の隠れ蓑である。
「おまえは二十年も前のことを調べているらしかね?」
幹事は疑り深く高飛車に訊いてきた。
「…………」
「なんでそんなことしとるとか?」
「それは……オトさんがどこでどういうふうに死んだのか、それが知りたい。それだけです」
協和会の人間がどうしてそんなことを訊いてくるのか、京淑には皆目わからなかった。
「あんな大地震で日本人も朝鮮人も、どこでどういうふうにして死んだのか判らん人間が何千人もいる。そんなことを探っているのは、何か下心があるのじゃないかと疑われてもしかたがない。二十年近く昔のことだ、止めろ」
朝鮮人の協和会指導員も訪ねてくるようになった。国に協力するだけでなく、朝鮮人の互助会のような役目もあり、困ったことがあったら何でも相談しろという甘言も聞かされたが、京淑は用心深く対応していた。しかし協和会にはまた親睦的な会合が、日本料理の講習といった名目で開かれることもあり、京淑は決して頑なに拒否もしていなかった。朝鮮語での会話も息抜きになり、それなりの知り合いもできた。
それでも最も信頼しているのはカズ代のほかにはいない。周りの日本人や朝鮮人とは少し違う視点を持っているハワイ育ちのカズ代は、家柄や人種といった偏狭な料簡に縛られず、周りの噂など一向に意に介さないばかりか無頓着であった。京淑にとって共鳴できるところが少なくなかった。カズ代の度量の大きさも京淑がカズ代を好きな理由である。
――しかしカズ代にも絶対に受け容れられない事が起きた。
昭和十九年(一九四四)の、桜の花びらが舞っているころ、出征している次男と三男が相次いで戦死したのである。
カズ代は家族の前でも憚らず声を上げて泣き、悔しさが極まり声を噛み殺して泣き崩れた。
夫の忠一と正行の男二人が
「非国民呼ばわりされるから泣くな」
と言うとカズ代は、
「息子二人を殺されて、涙を流して何が悪い。何が非国民なものか」
二人に食ってかかり、〈死亡告知書(公報)〉を引き裂いた。
「こげな紙切れを信じるもんですか」と言って泣き暮れた。
その時以来死ぬまで桜の花を嫌い、桜の季節には外出しようともしなかった。カズ代は晴れない日々を過ごし、京淑と話すことも少なくなっていた。通いの大工職人二人にも赤紙が届いて出征して行き、家の中の活気も失せた。
忠一がカズ代の落ち込みようを見兼ねて、正行と京淑のことに言い及んだのは翌年の正月である。忠一にしても職人二人がいなくなって、両腕をもがれたようで仕事にも支障をきたすほどになり、意気消沈していた。
「京淑と正行のこと、どうだろう? おまえから京淑の気持を訊いてみろ。正行は元々あんな身体だから、嫁にきてくれる女なんかおらんと思っとるだろう」
カズ代の問いかけに、京淑は一も二もなく承諾して言った。
「正行さんこそ私でいいと思っていますか? 結婚したら日本人になれるのですか?」
「李京淑は長谷辺京淑という日本人になるよ」
二人の結婚はすんなり決まり、役場への届け出は〈長谷辺 淑子〉として受理された。
戦死した二人の息子の公報を受け取って一年が過ぎた昭和二十年(一九四五)五月末、戦争は既に庶民の生活の隅々までがんじがらめにしていたが、正行と京淑は親戚身内だけのささやかな式を挙げた。花嫁衣裳も祝宴もなかった。
日本人〈長谷辺淑子〉になった京淑は晴々としていた。
「義母さん、私日本人になったから協和会に行って手帳を返してきますね」
京淑の無邪気な、青空のように明るい声に、カズ代は久しぶりに心が癒されていた。
京淑は出かけると言いながら、部屋からなかなか出てこない。カズ代が部屋を覗くと、着るものを取替えひっかえしている。モンペを穿くしかないだろうにと思っていると、
「これにしました」と言ってニコニコしている。
カズ代と京淑が、二人で初めて京城の本町へ出かけたときの浅葱色のワンピースをモンペの中に押し込んだ、おかしな恰好だ。カズ代は異議を唱えなかった。カズ代との思い出のこもった服を無理しても着ていこうとする京淑の気持を大切にしようと思った。
ほどなくして、出かけたばかりの京淑が取って返すように息咳き込んで帰ってきた。
「協和会の事務所へ行ったら……あの……えっと」
「どうしたの? 落ち着いて話しなさい」
興奮して、咄嗟に日本語が出てこないのだ。
「協和会事務所のアジョシ……おじさんが教えてくれました」
「ゆっくり話しなさい」
協和会の朝鮮人指導員は、父親の亡くなった経緯を知りたくて、京淑が方々に問い合わせをしていることを知っている。特高内鮮課に通じている協和会では、京淑の父親の名前、出身地、明治大学を卒業していること、関東大震災で死んだことも知っていた。
「ちょうどよかった。あんたに早く伝えようと思っていたところでした。あんたのアボジのことで……」
北九州の小倉市(現北九州市小倉北区)に住む、指導員の知り合いが商談で博多へ赴いたときのことだという。
「宋という五十ぐらいの男で、いまは山村と名乗っている人だけど、その人が博多港の近くであんたのアボジ李瑛根に会ったというんだよ」
「死んだ人にどうして会うんですか?」
「出向いた博多の会社を出た所で、向かい側の、ミシン修理の看板を掲げた店を出てきたのを見て、あれっと思い声を掛けそうになった。『あんた李瑛根じゃないのか』とね。宋(山村)さんが言うには間違いなく李瑛根だというんだ」
宋(山村)さんに確かめてみなさい、と指導員は小倉の住所を書いてくれたというのだ。
「私、小倉というところへ行って宋さんという人に話を聞きたいです。小倉は遠いですか? 私一人で行けますか?」
居ても立ってもいられない様子でカズ代の着物の袖を引っ張る。
正行が事情、経緯を書いて、小倉へ訪ねて行っていいかどうかを問い合わせると、すぐに来てくれとの返信の葉書が届き、京淑は一人で出かけていった。
宋(山村)氏は、小倉の繁華街魚町に近い、街中の紫川沿いの一角に住んでいた。
「私も李瑛根さんも日本への留学生でした」
宋氏と京淑は朝鮮語で話し、微妙なニュアンスも京淑にはよく読み取れ、解りやすかった。
「東京神田のYMCA会館でよく見かけましたから、何十年経っても、年を取っても、人違いすることはありません。博多でばったり会ったあの人は間違いなく李瑛根さんです」
「地震で死んだ人がどうして博多にいるのですか?」
「それは私にもわかりませんが、死体を確認したわけではないでしょう。行方不明の人が何千人といたのですから。行方不明は、死んだのか生き延びたのかもはっきりしないということでしょう。生きていても不思議ではない」
作り話ではないかと京淑は思った。生きていたのなら、死んだ母に何か言ってきてもいいではないか、幼児の自分がいることもわかっていたのに、と京淑は母親の無念を思い、怒りも覚えたが、生きているという朗報は、全ての溢れるような憤懣や苦い思い、恨んだこともあった過去の日々も霞んだ。
「アボジ(お父さん)」と、ひと言呼びかけることができるならばそれで充分だ。アボジという朝鮮語を、たった一度でいいから感情を込めて使ってみたかった。
――本人を目の前にしてアボジと呼ぶ気持というのは、どんなものなんだろうか。少し恥ずかしい気もする。
――京淑や! と言ってニッコリ笑ってくれるだろうか。
小倉からの帰り、二時間ばかりの汽車の中では、誰にも語ることのない悲しさや口惜しい思いが詰まった朝鮮での日々が思いだされて、涙が流れるにまかせて窓の外を見ていた。
九
松井田英助になった李瑛根は、細心の注意を払って生きてきた。無意識のうちに東京から離れようとし、留学時の知り合いの朝鮮人から遠ざかることに心を砕いてきた。
心を許し、世話になった井関刑事への申し訳なさも飲み込んで、彼の前から姿を消した。なんと恩知らずなやつだとののしられようと、ただ赦しを請う思いだった。
瑛根はしばしば夢にうなされ、そばに寝ている妻に揺り起こされた。
「なにか訳のわからない言葉を口走っていたわよ」
見る夢は朝鮮のどこかであったり、チヨだったりした。チヨは夢の中で瑛根をなじっていた。
――あなた、こんな時間までどこにいるのよ? あなたの好きなテンジャンのチゲ鍋を作って京淑も待っているのに。
――だから仕事で神戸だと言っただろう。
――そばにいる女性は誰なの?
――女房じゃないか
――よくもそんなわがままで非情なことができるわね
――おれの深いところにある苦衷がおまえなんかに分かるものか
大きな自分の怒鳴り声で目を覚ました。
地震のあと仕事を求めて、神戸、広島と住居を変えた。
一人で始めたミシンの販売と修理の仕事は順風満帆というわけにはいかなかったが、人並みの生活をするだけは維持していくことができた。仕事の事で朝鮮人であることがばれることはなかったが、ときには冷や汗をかく場面が皆無とはいえなかった。取引上やむを得ず懇意にすればするほど個人の領域まで他人が手を突っ込んで来ることがある。三十歳を過ぎての男のやもめ暮らしに、嫁を世話しましょう、不便でしょう、とお節介に口を挟んで来る人物もいた。また隣組という厄介な近所付き合いの中には、瑛根を変わった人間のように悪し様に言う近隣の主婦たちもいたのである。彼女たちは自分に何か疑念を抱いているのではないかと、瑛根は後ろめたさを持っているがために、ますますぎこちない言動を取りそうになった。そんなとき瑛根は、危険を避けるように思い切って新しい街へ向かった。そのためにはビジネス上の損失も厭わなかった。
広島に移り住むと瑛根は、まるで野性の動物や魚が周りの景色や海底の色に合わせ全身の色を変えてその保護色で己が身を蔽うように、日本人女性と結婚をし、何の変哲もない日本人家庭に身を潜めた。その広島の女性との間に一児が生まれたのである。
寡黙な女で瑛根の過去を詮索することはなかったが、生活の一端に現れる瑛根の所作に不思議そうな表情をされると、冷や汗をかくことがあった。着物の着方がだらしないと言い、顔を洗うときになぜ首まで洗うのかと眉間に皺を寄せて首を傾げた。ハッとすることがあっても、朝鮮人の知り合いに遭遇することにくらべれば些細なことである。
日本人に成り変わって二十二年もの歳月が過ぎ、日本人、松井田英助であることを疑われる何度かの危機はあったが、最大の窮地は、十七歳になった息子の敏雄が航空少年兵に志願したときである。
李瑛根が必死に避けてきた軍歴の有無を調べられて、すべてが水泡に帰すのではないかと観念しそうになった。仕事上の付き合いの中でも、軍隊経験の思い出や、所属した師団連隊の話には、その話題を早く切り上げることに腐心した。
息子の敏雄は航空練習生として今、なんの因果か朝鮮・済州島の慕瑟浦にいる。
瑛根は、一人息子が戦死することよりも、自分が日本人に成りすましていることが暴かれることを恐れていた。まるで逃亡者のようにして生き延びてきた。
チヨと京淑を忘れずにいながらも、自分の弱さから、日本人女性との間に子を成した。昭和三年(一九二八)のことである。
チヨとの同棲は、自分から積極的に望んだものではない。チヨの情熱にほだされた結果なのだという、男の身勝手な言い訳から、優柔不断であり続け、転居を繰り返すうちに、いつの間にか博多に流れ着いていた。瑛根は、自分は所詮朝鮮人、チヨとの仲は世間に認められる夫婦にはなれない間柄だと、屁理屈をつけて居直っていた。
もう五十歳に手が届くところまできてしまった。これから何を望むというのか。波風のない静かな生活をと考えていた矢先に宋と会ってしまったのだ。
十
小倉へ行った日から二、三日後の六月中旬、宋に書いてもらった地図を頼りに、京淑と正行は松葉杖の不自由を厭わず、博多港にほど近い李瑛根の店に行ってみることにした。
ミシン修理・縫製、松井田商店という看板を目当てにすればよいが、中を窺うには何か口実が必要だった。
「『看板を見たのですが、私たちは中古のミシンを探しています。何か都合のつくようなものはありませんか?』と言えばどうだろう。まさか不躾に李瑛根さんではないですか、なんて訊けないだろう」
「あなたが話してくださいよ。私は写真の人かどうかだけを見ています」
薄暗い土間には数台のミシンと、繕いに出された国民服とおぼしき衣服を折り畳んで重ねた棚があり、中年の女性が、乏しい明かりの裸電球の下で、ミシンに向かって作業をしているだけである。
来意を告げると、主人は今日帰ってこないので、中古の売り物のミシンがあるかどうかわからないという。
「ご主人、松井田さんはいつ帰ってこられますか?」
正行はあえて主人の苗字を口に出して訊き、松井田という名前だけは確認できた。
他日を期して改めて訪ねる旨を告げて、二人は拍子抜けして外に出た。潤滑油らしい臭いだけが印象的であった。ミシンの修理を生業としていることからも間違いなく父親であろうと確信した。
しかしその日に不在だったばかりに、京淑は父と巡り会うことは空しい夢に終わってしまう運命だったのだと悲観的な思いが広がった。
昭和二十年六月十九日の夜中、筑紫郡二日市一帯にも空襲警報のサイレンの、低く籠った不気味な音が長く鳴り響いた。
サイレンが止んで日付が変わった頃、二階北側の窓から博多方面を見ると、上空まで霞んだ夕焼けのような色に染まっていた。二日市から十五キロしか離れていない博多の街は、一晩中燃え続けていた。
父親を心配した京淑が、その二日後に目にした博多の街は、跡形もないほどに焼け落ちた光景だった。それから一週間、焼け跡へ通い続けて父親を待ち、近くにいる人たちに父親の消息を尋ねたが、誰も知る人はいなかった。
京淑は、焼け跡に落ちていたミシンの部品と思われる、煤けた金具をハンカチに包んで持ち帰った。
帰りの汽車の中で部品の臭いから父親を偲ぼうとしてハンカチを広げ、「パルチャ(運命)ね」と呟いたとき、突然吐き気がこみ上げてきた。
――ひょっとすると……。
国民に塗炭の苦しみを強い、多くの肉親を亡くした人々に深い悲しみをもたらした長い戦争が終わった。
朝鮮人にとっては、民族の誇りをずたずたにされた、三十六年に及ぶ日本の植民地支配が、戦争の終結と同時に終わったことを意味した。
京淑は、二階の窓の手すりに凭れて、生温かい風が吹き渡る青田を見ていた。何も起きはしない。昨日とも一年前とも何も変わらない同じ風景が広がっているだけだ。
これから自分にどんな生活があるのかと考えても、想像がつかない。夫、正行と淡々と暮らしていけばいいと、それだけがぽつんと心の中にあった。
九月の声を聞くと、見知っていた興生会(旧協和会)の人たちとその家族は、故郷朝鮮への帰還を急ぎ、櫛の歯が欠けていくように京淑の周りから去っていった。中には「あなたも朝鮮に帰るのでしょう」と、それが当然のように言う人もいた。
「いいえ、私は帰りません。日本人と結婚したのですから日本に住むのが当然です」
深く考えることもなく日本人になりたいと思っていたが、それは決して京淑の思いの、正鵠を射たものではなかった。日本人でも朝鮮人でもない、民族人種という区分けに無縁な人間というものはないのかと空想していたのではないだろうか。
ミシンの部品を持ち帰った汽車の中で気分が悪くなった六月末のあの日のことを、カズ代に言おうかどうしようかと逡巡していた静かな昼下がり、京淑とカズ代が食卓を囲んでいた。茶碗に盛った雑炊の湯気に、京淑は箸を置く間もなく、両手で口を覆って後ろを向いた。
「淑子さん、赤ちゃん?」
カズ代は見逃さなかった。
「たぶん……そうだと思います」
アボジへの微かな未練を断ち切ったのと引換えに、小さい生命が芽生えたのだ。
向かい合った食卓に、まるで陽だまりのような温かい空気が満ちて、胸いっぱいに広がってきた。
京淑が、しみじみとした訛りのない日本語で言った。
「お義母さん、近いうちに美味しいコーヒーを見つけて、二人だけで飲みにいきましょう」
「私はカフィで、あなたはまたラムネ?」
そう言うと二人は満面に笑みを浮かべて両手を握り合った。
十一
李瑛根は、六月十九日の福岡空襲で何もかも失くし、そして終戦を迎えた。
天皇陛下の玉音放送は、身を寄せていた知り合いの糸島郡前原町の仮寓で聞いた。
日本は負けるのではないかと思い続けていたものが、空襲によって確信に変わり、終戦によって李瑛根の戸惑いと、つかみどころのない不安が決定的なものとなった。
――おれは、関東大震災を境に朝鮮人の前から身を隠すようにして松井田英助という日本人として生きてきた。朝鮮は半永久的に日本のままだと疑うこともなしに。ほんとうにおれは日本人になりたかったのだろうか。周りの迷惑など考えず、ただ身勝手な打算だけから軽率なことを仕出かしていたのではないだろうか。
――仕事を口実に東京から神戸、広島と流れ福岡にいる。しかし朝鮮を遠ざけながら無意識のうちに朝鮮に最も近いところに辿り着いているではないか。わがことながら朝鮮人のプライドもなく、日本人の風上にもおけない所業、軽蔑すべき人間だ。
李瑛根は自分を声に出して嗤いたくなり、唇を歪めた。
持ちきれないほどの身の回り品を持った朝鮮人が、博多港へ押しかけ始めているという噂を瑛根が耳にしたのは、終戦から一週間ばかり経ってのことだった。
老いた母のことを思った。朝鮮の実家、弟、それに戸籍上の妻の永姫。何よりも京城に残した林チヨと京淑は終戦になってどうしているのだろうか。これからどうなるのだろうか。片時も忘れることはなかったと思いながら、わが身かわいさゆえの言訳ばかりで、あまりにも酷い所業だったのだ。瑛根にはどこにも理はなかった。財を成して二人を日本に呼び寄せると独り合点しながら、はるかな時間だけが過ぎていき、挙句の果ては別の女性との間に子供までもうけるなど禽獣にももとることだったのだ。
李瑛根は松井田英助でありさえすれば、朝鮮と日本内地をいつでも自由に行き来できると安易に考えていたが、日本が戦争に負けた今となっては、それはどうなるのだろうかと不安に駆られた。朝鮮人が陸続として博多港へ集まっているという様子を見てこなければと落ち着きを失くしていた。
どれほどの朝鮮人が内地へ来ていたのか見当もつかない。仕事を求めて来た者、故郷を捨てて家族を呼び寄せ、日本に住み着いていた者、徴用によって半ば強制的に連れてこられ、鉄道や飛行場の建設現場で働いていた者、あるいは筑豊や長崎の炭坑で働かされていた者などが船を求め、朝鮮への渡航を急ぎ博多や下関を目指していた。皆が皆一刻も早く祖国朝鮮へ帰ろうとしていた。
数千人の朝鮮人が蝟集しているとなれば、通常であればその異様な光景を新聞が書きたてたにちがいない。しかしさほどの記事にもならず、日本人の関心を惹いていると思える気配がなかった。福岡の街の半分以上が空襲によって破壊され、だれもが他人に関心を寄せる余裕などなかった。
敗戦という衝撃に打ちのめされている日本人には、朝鮮人の引揚げ事など目に入ることもなかったが、李瑛根にとっては最大の関心事であった。朝鮮人とのつき合いがなく、何の情報も得ることができないことが瑛根の不安を増幅させ、苛立ちを募らせた。どんな見通しも心構えもないままに、とにかく一度朝鮮に帰ってみなければとの思いは膨らむが、朝鮮人の中に入っていき情報を集めることに躊躇があった。知り合いと顔を合わせることにならないとも限らない。また一方ではこの期に及んで日本人松井田英助が朝鮮人李瑛根に戻ったところで何の惧れがあるのかという開き直りの思いもあった。環境の激変にこれからどうすべきか皆目想像もつかない。
瑛根は仮寓している筑肥線の筑前前原駅を夕刻に発って博多へ向かった。夜であれば顔を見られることもあるまい、様子を探り、聞き耳を立て、二、三人の知らない人間に状況を聞くことはできるだろう。
小一時間ばかりの汽車の中から見える福岡市街は、郊外の民家とわずかに焼け残ったビルの窓から漏れる、数えるほどの明かりだけで一面が焼け野原のままであった。
博多駅に降り立った瑛根は、道の両側にバラック風の家がぽつぽつと建ち始めた大博通りを博多港に向かって歩き出した。借り店舗兼住まいのあった場所に足を運んだが、暗くてなにも見えない。すぐ近くにはすでに家族らしい朝鮮人のいくつものグループが焼野原の夕闇の中で、大ぶりの家財道具に凭れるようにしていた。港に近くなるにしたがい、同じような人の輪が接するようにしてひしめき合っていた。
七輪を囲んだ家族は、鍋代わりのアルミの洗面器を突付いて食事をしている。また男たちは大声で話しながら酒を飲んでいるようだ。おそらくドブロクであろうがどこから仕入れてくるのだろうか。
知り合いもいないと見定めて瑛根は、ドブロクの数人に朝鮮語で話しかけた。
「すみません、さっき福岡に着いたばかりの者ですが、釜山行きの船はいつ出航するのでしょうか?」
「なにを寝ぼけたことを言っているのか。こっちが聞きてえくらいだよ」
「金がありゃ機帆の闇船でも探したほうが早いぞ」
「大風が吹きゃひとたまりもないがな。嵐に遭って失敗した船がいくつも対馬あたりに流れ着いているらしいよ」
熟柿のような息の臭いと、きつい慶尚道訛りで答えた。
「どこか詳しい情報を教えてくれるところはないのでしょうか?」
「上品なウリマル(朝鮮語)をしゃべるなあ。何してたんだい? まさか特高係でもしていた訳じゃないだろうな」酒にまかせて絡むように聞いてくる。
「竹箒の行商です」口から出まかせの卑屈な言い方になった。
「もっとも特高係もいなくなったが、もしそうだったらここでは袋叩きにあうぜ」
随分長い間朝鮮語を話していなかった上に、瑛根の朝鮮語は京城の言葉だった。
同胞のよしみから親切に言葉を挟んだ人がいた。
「桟橋の先っぽのほうに引揚援護局とかいうのができたらしいですよ。明日にでもそこに行ってみたらどうです」
学生だったような青年が丁寧な言い方で教えてくれた。唯一の収穫だった。
久しぶりに懐かしい朝鮮の臭いをかいだ李瑛根が、筑前前原駅に帰り着いたのは十一時近かった。稲穂が垂れた田の間の道は月明かりに照らされている。
――朝鮮はもうすぐ秋夕(チュソク:中秋の旧盆)だなあ。墓参りもずいぶんご無沙汰だなあ。
とりとめのないことを思いながら、十五分ばかりの道のりを北へ向かい四つ角に差しかかったときだった。ドッドッドッという地に伝わるような聞きなれない音がしたかと思うと、三人の男が夜の闇の中を、牛を引きずるようにして農家のわきから突然現われた。
瑛根が竦んで立ち止まると、しまったというような、あきらかに慌てた態度を露わにした一人が挑むように瑛根に言った。
「じゃまだ、どけ」
さらに
「海はどっちタ?」
朝鮮語訛りの日本語だった。男たちの一人のズボンは朝鮮風のパジだとわかった。
「ウェンチョック(左の方)」
瑛根は咄嗟に朝鮮語を口走っていた。男たちは一瞬驚きの表情になったが、にやりとすると牛を促して足早に無言で立ち去った。
間をおかずして、寝間着そのままの農夫らしい年老いた男が「ドロボー、牛ドロボー!」と叫びながら、息を切らせ転がるように瑛根の前に現われた。
「牛ドロボーです、どっちに行ったやろか?」
「あっちです」
瑛根は右の方を指差した。
あとを追うようにして主婦らしい女と老婆が、わめき散らしながら男に続いた。
「ばあちゃん、ドロボーは朝鮮人よ、朝鮮人に違いなか!」
悪し様に罵る女の声に、瑛根はいたたまれない憂鬱な気分に陥った。
何故ドロボーをかばうような嘘の方角を言ってしまったのだろうか。今日見た同胞の夕食の光景が、瑛根の心の奥深く沈めていた朝鮮人という埋め火を掻き熾したとしかいえない。あの牛は解体されて同胞の腹を満たすことになるのだ。ついひと月前まで、どれほどの貧相な食事と過酷な生活だったことか想像に難くない。そしていまはいつまで続くのかもわからない、帰還を待つ時間に食料も底を尽きはじめたのではないだろうか。
一方では、農家の貴重な労働力である農耕牛を失くした老農夫の、絶望的な声を出した悲嘆も骨身に沁みるように理解できることだ。まるで李朝の時代から百年も働き続けているような実家の牛と家族を思った。井戸の蓋にもなりそうな大きさの石臼を、いつ終わるとも知れず回し続け、田や畑を鋤いていた赤牛が、瑛根の目に焼きついている。古里に帰ってみたいという願望が胃の奥のほうから込み上げてきた。
牛泥棒と農夫に言った真逆の返事は、矛盾だらけの行動をとってきた今の自分を象徴している。行き当たりばったり生きてきたことの報いが、羅針盤を失くした漂流船のような現在の自分を映し出していると思った。
博多港に集まっている同胞の様子を見たうえで、どうするかを考えればいいと軽い気持で出向いた瑛根であったが、喧騒をきわめる祖国帰還の熱気に圧倒され、落ち着きを失くしてしまった。状況把握などと悠長なことは言ってはいられない。あれほどの人間が船待ちしているとなれば、安易な考えではいつになったら釜山へ渡ることができるのか見当もつかない。瑛根の逡巡は深くなり、何を考えてもすべてが納得できる整合性のとれたいい結論など出せるわけがなかった。
予科練に行った息子の敏雄はまだ復員しないばかりか生死も定かではなかった。
無事復員してくれば一安心ではあるが、朝鮮に行くとなれば、自分が朝鮮人だということを息子に告げなければならない。そのとき敏雄がうける衝撃や動揺は計り知れないだろう。瑛根は、そのことだけで気が重くなった。
朝鮮人にも日本人にも嫌気が差していた昔の瑛根の気持など息子にわかってもらえるはずがないのは明白だ。それでも一度朝鮮へ帰らなければならない。チヨと京淑のことがある。田舎の家族も弟にまかせっきりですまないと思うと居ても立ってもいられず、瑛根の中では望郷の念が膨らむばかりであった。日本人に成りすましてからの年数を頭の中で数えていた。
日が経つにしたがって博多港の周辺には朝鮮人が見る見るうちに溢れ、居場所を確保できない人々の輪が広がって、博多港駅舎や数百メートルも離れた東公園にも居ついていた。瑛根が様子を見に行った夜からいく日も経ってはいない。
瑛根は、青年に教えられた県庁民生課の出先相談窓口へ出向いたが、混雑をきわめた簡易机一つの窓口では、何一つとして聞き出すことはできず、それらしい台帳に名前と年齢、性別を書き入れただけだった。
「ちょっと、すみません」
立ち去ろうとする瑛根の袖を掴んだ者がいた。
「李瑛根さん……では?」
唐突に名前を呼ばれた瑛根は、否定も肯定もせず立ち竦んだ。
「宋(ソン)です。宋日浩(ソン イルホ)ですよ。覚えていますか?」
瑛根はすぐに思い出していた。一九一九年二月、東京のYMCA会館での朝鮮人留学生総会の光景、朝鮮の独立宣言書が読み上げられる中での、警官隊の乱入と会場の怒号。宋はそのときの留学生仲間の一人だった。二、三歳年下だったと思うが、議論の場では穏健な正論を述べ過激を好まない論客だったように記憶している。いま同胞の帰還の世話に携わっているのも、そんな彼の正義感の強い性格によるもののように思える。
「やっぱり瑛根さんだった。福岡に居られたんですね」
即座に否定しないで黙ってしまうのは肯定を意味した。
懐かしさにほだされたように宋は続けた。
「あのYMCAの騒動からずいぶん時間が経ちましたね」
遠くを見るようにしてしみじみとした口調で言った。
「…………」
「いろいろなことがわれわれ朝鮮人にはあり過ぎました」
「ずっと日本にいたのですか?」瑛根はしかたなく口を利いて宋と視線を交わした。
「ほとんど内地に。おっと、ついいままでの癖がでて内地などと言ってしまいました。そう、こっちにいました。強盗、泥棒以外はなんでもしながら、這いずり回るようにして生きてきました。最後は小倉にいました。解放(ヘバン)なんて夢のようです」
あなたもずっと? と訊かれて、
「ええ、大学を卒業して一度朝鮮に帰りましたが、仕事がなくて」
日本人に成りすましたなどと瑛根は口が裂けてもいえない。話題を変えようと思った。
「どこかで、何か食べるものはありませんか?」瑛根が訊いた。
「川べりにいくらでもありますよ。朝鮮市場と呼んでいます。わたしも腹が減りました。一緒しましょう」
埠頭に沿って博多湾に注ぐ石堂川の岸辺には、川底に打ち込まれた杭の上に危なっかしいバラックが建ち並びはじめていた。バラックの中には、米や缶詰はもちろん白砂糖など食料品は何でもというほどに豊富にそろっていた。
「ほんとうに久しぶりですね。ピンデトック(緑豆チヂミ)はどうです? ドブロクも飲みましょう」
「そんなものまで。警察に見つかったら……?」
「ここは一種の無法地帯です。警察も見て見ないふりですね。ほとんど近寄りもしませんよ」
洪水のように押寄せる帰還希望者の胃袋を満たすためには、自炊だけではどうにもならない。そこでは生活に必要な物を商う市場が自然発生的に生まれていた。闇市である。
李瑛根と宋日浩は、食欲をそそるバラック群へ肩を並べて歩を進めた。
「あれは?」
瑛根は湯気をたてている釜を指差して宋に訊いた。角の生えた牛の頭が垣間見えていた。
「どうにもなりませんよ。利に敏い、あくどい奴らが近郊の農家から盗んできた農耕牛を一晩のうちに解体して、ああやって売っているのです。同胞とはいえ、目に余ります。なにか言おうものなら、袋叩きに遭います」
瑛根は数日前に目の当たりにした盗難の現場と、悲嘆に暮れて悪態をついていた農婦を思った。「ドロボーは朝鮮人よ」と言った。近隣の農家では知れ渡っていたのだ。
「あそこに座って食べましょう」
買い求めたピンデトックとドブロクを手にして、宋が莚に包まれた荷物を指差しながら「あなたにどうしても話さなければいけない大事なことがあるのです。すぐに言おうと思いながら懐かしさが先にたって」
と言い足した。そのために忙しいことも構わず、一緒したいと言った理由がわかった。
瑛根には宋日浩が何を言おうというのか見当も付かなかった。二十数年も前のこと、あるいは自分が日本人に成りすましていたことに関係することなのか、もしそうだとしても、そのことが宋と何の係わり合いがあるというのだろうか。微かに不安がよぎった。
「瑛根さん、わたしはあなたの娘さんに会ったのです。つい四ヵ月ばかり前のことです。娘さんがわたしを訪ねてきたのです」
宋は言葉に力を込めて言った。
――京淑が京城から訪ねてきたというのか。それとも宋の近くに住んでいるということなのか。
想像もしないことだった。瑛根は宋の目をまじまじと見た。聞かされた内容を冷静に咀嚼できず、心の一隅が虚ろになった。
宋日浩は、六月十九日の福岡空襲の前に偶然瑛根を見かけたこと、瑛根の娘が瑛根の消息を尋ね回っていたこと、娘が伝を頼って自分に会うために小倉まで来た経緯を話した。
訊き終わるやいなや、それまでの沈黙を放棄したようになりふりかまわず、どこに住んでいるのか、何をしているのかと、瑛根は咳き込むようにして訊いていた。
十二
九月の末になって知り合いのアジュンマが、突然京淑を訪ねてきた。朝鮮人の親睦団体興生会(旧協和会)の知り合いであった。着の身着のままの、白木綿のチマもチョゴリも薄汚れている。
「どうしました? とっくに朝鮮にいると思っていましたのに」
「どうもこうもないよ、博多港の桟橋近くで待っているけど、いつまでたっても船なんか出ないよ。荷物の大きい者や多い者は後回しだと言うんだよ。どんな順番だか、まったくわかりゃしない」不満たらたらである。
「ずいぶん乱暴で不公平ですね」
「いや、それは闇船のことよ。普段なら二十人も乗れば満員なのに、強欲な船長は、五十人は乗せて荒稼ぎしようというのさ。だから荷物の多い者は後回しだよ」
京淑は感心しきりの表情で頷きながら先を促した。
「それで今日はどうしました?」
「いや厚かましいとは思ったけど、助けてほしいの。食べるものもお金も底をついてきたのよ。なんでもいいから少し分けてもらえないかね。いや日本人も食料不足ということは充分わかっての頼みさ」
ただ無為な日々だけが過ぎていき、帰還の見通しもない。そのうちに粗末な闇市の食料も日々値段が高騰し不安な毎日だというのだった。
「わたしゃこっちに残りたくなったよ。帰る、帰らないで、毎日亭主と喧嘩さね。アンタも朝鮮に帰るでしょ、と訊いたときにアンタはきっぱり言ったね『わたしは日本人と結婚したから帰りません』って。それでもどうして? 朝鮮人でしょ、と思ったけどアンタは賢かったよ。わたしは二日市に戻ろう思うても住むところもなくなったがね」
「わたしはここしか住むところないのよ」
「日本語で何と言ったかね? あわてる乞食が……」
「あわてる乞食は貰いが少ない、よ」
「あわてても、あわてなくても乞食は乞食よ」
「何か食べ物さがしてきますね。配給はないのですか?」
「そんなもの朝鮮人は後回し。外地から引揚げてくる日本人には配っているよ」
「そんな……」
「そんなもこんなもない、解放(ヘバン)前のほうがよっぽどましだったよ。亭主はヤケッパチで毎日毎日ドブロク喰らって管巻いてばかり。その辺の、豚や犬の一匹でも引っぱってこい、だとさ」
聞き慣れない声高な朝鮮語に、カズ代が顔を出した。
「淑子さん、どうしたっていうの?」
事情を聞いたカズ代は、そのへんにあった、すぐに口にできるものをみつくろって持ってきた。
「こんなときは朝鮮人も日本人もあるもんですか。昔ハワイにおったときはお互いさまで助けあっとったよ」
アジュンマは、あのハルモニ(おばあさん)はいい人ね、と何度も何度も頭をさげ、「元気な赤ちゃん産んで幸せになるのよ」と言い置いて帰っていった。
「淑子さん、わたしは京城の明や孫たち一家のことばかり案じているけど、朝鮮人も大変なんだねえ」
戦争が終わって以来、日本と朝鮮の間は電話も通じず、郵便の往来も途絶えていた。
釜山からの最初の引揚船が博多港に着いたという新聞記事を目にした日から、カズ代は引揚者のニュースに神経を研ぎ澄まして、明一家が帰って来るのを、今日か明日かと口には出さなかったが待ちわびていた。
口にすれば願いが叶わないと頑なに考えているようだ。神仏もどんな宗教も信じないと言って憚らなかったカズ代が、毎日長い時間仏壇の前に座っているのを京淑は何度も目にしていた。
「義母さん、わたし近いうちに博多港まで行ってみようかと思います。協和会でよくしてもらった人たちがどうしているか気になりますし、お義兄さん一家がいつ引揚げてくるのか聞けるかもしれません」
カズ代の目がパッと輝いた。
「身重の体で、あなた大丈夫?」
「平気です。少し運動した方がいいのです」
「二人で行こう」
カズ代はいますぐにも出かけるように弾んだ声で言った。
「明たちが帰ってきたらにぎやかになるね。夏子さんがうるさいわよ」
カズ代は口をへの字にして、目はアカンベエをするように笑っている。
「奥さんは幼い子供を連れて大変でしょうね」
「奥さんじゃないわよ、義姉さんと言いなさい」
カズ代は、京淑がお気に入りで可愛くてしかたがない。
十月に入ってすぐ、カズ代は乏しい食料から、京淑が心配になるほどの量のふかし芋(さつま芋)を用意し、京淑と二人で博多駅に降り立った。
駅頭に立ったカズ代と京淑は、人間や荷物が無秩序に広がっている異様な光景に立ち竦み、目を見張った。
駅前から海に向かっている大博通りといわず焼け跡といわず、人が群れ行き交い雑然としている。それは京淑に、友人の韓玉順や行商のアジュンマと歩いた京城の鍾路の通りや市場を思い起こさせた。
博多港埠頭に歩を進めるに従い、京淑にはなんとも言いようのない、懐かしい匂いが嗅覚をくすぐり、うっとりとなった。あちこちからあがる朝鮮語の話し声に混じって、遠くから聞き覚えのあるメロディが、遠くのせせらぎのように聞こえてきた。何人もの人たちが歌っている歌は、朝鮮の童謡〈故郷の春〉とわかるまでに時間はかからなかった。京淑は無意識のうちに和して口ずさんでいた。
「ごきげんね」
カズ代と一緒だったことを忘れていた。
「ごめんなさい。懐かしい歌だったからつられて歌い出していました」
「気にしなくていいよ、だれだってふる里の歌や子供時分の歌は懐かしいものよ」
やることもなくただ待つだけの人々は、歌でも歌って故郷へ思いを馳せ、無聊を慰めているのだろう。
埠頭に近づくにつれ、通り抜けることも難儀するほど朝鮮の人々がひしめき、たむろしていた。〈アリラン〉を唱和するグループもあちこちにいた。心はすでに故郷にあるのだろう。興が乗ると、だれ憚ることなく踊り出すアジュンマたちもいた。引っ込み思案にはほど遠いあけすけさも朝鮮女性特有だった。日本の支配下から解放され、本来の気質が爆発しているような騒がしさだ。
馬車の荷車に積まれたままの荷物や、降ろすこともできない荷物と荷台に人間が乗ったままのトラックや人の輪を縫うようにして、京淑とカズ代は、アジュンマに聞いていた馬事会の馬繋ぎ場だった建物へ向かった。秣が敷きつめられた建物の中は、屋外にも増して人がすし詰めになってひしめいていた。
「二日市の李アジュンマいますか?」
京淑は朝鮮語で四方に向かって呼んでみた。遠慮がちの声では捜せないと思った京淑は「二日市の李さん」
と朝鮮語で言い、
「二日市の松本さん」
日本語で通名を呼ぶと、アジュンマが手を振った。
「まあ!どうしたの、こんなところへ」
「ふかし芋をもってきてあげたのよ。みんなで食べて」
「アイゴー、うれしいよ、助かるよ。こんなにたくさんもらっていいの?」
李アジュンマはカズ代と京淑の手を取って繰り返し礼を言った。
「こんなに人がいるとは思わなかった」
「まだ今日はいい方だよ。雨の日なんか外の人たちが押寄せてくるし。それにこの藁の上に寝るのよ。こんなところじゃ、座りなさいとも言えないね、蚤や虱までいるから痒くなるよ」
「病気にならないか心配ね」
「そのうち伝染病が流行って、暴動が起きるよ」
「それはたいへん。消毒はしないのですか?」
ことのほか衛生に敏感なカズ代は伝染病と聞いて身を固くした。
「外地から帰ってくる引揚げの日本人には、アメリカ軍がDDTとかいう白い粉末の薬を竹筒の水鉄砲に似た噴霧器で体中にふりかけていますよ。朝鮮人は放ったらかしで二の次」
「そうそう、どこに行けば日本人を乗せた引揚船がいつ入って来るのかわかりますか?」
「さあ。反対方が到着する桟橋だから、そこへ行けばわかるかも知れないね」
石堂川を間に挟んだ埠頭には、長い造りの倉庫が幾棟も並んでいる。そこは引揚げて来る日本人や帰還する朝鮮人、台湾人を検疫する場所であったり、一時的に収容するために供されている建物だったりであった。
「埠頭の一番先端の倉庫に行くと、県庁の係の人と興生会の世話役の人がいるから、なにかわかるかも知れんね」
アジュンマが馬繋場の外までついて来て、建物を指差した。
すでに引揚げて来た人々の一群とも行き交った。検疫を済ませた人々はみな、着の身着のままに、大作りのリュックを背に両手には持てるだけの荷物を持ち、DDTをかぶった頭髪は白黒が斑になり、シオカラトンボさながらであった。
教えられた倉庫に出向いた京淑とカズ代は、『福岡県民生課』『福岡興生会』の張り紙がある二台の事務所代わりの事務机が置かれた所で、思いもかけないことを聞かされることになった。
机には係りらしい中年の男性が、忙しそうにして二人いるだけだった。
「すみません、わたしは二日市の長谷辺というものですが、ちょっと教えてもらえませんか?」
カズ代が遠慮がちに声をかけた。
「なんでしょう?」胡散臭そうな返事である。
「ええ、わたしの息子一家が京城にいるのですが、いつ引揚げてくるのか知りたいもんですから。乗船名簿とかに名前が載っていればと思いまして……」
「そんなもんなかですよ。一回船が入ってくると何千人と乗っとるとですよ」
「釜山からは間違いなかろうけど、船の入って来る予定もわかりませんか?」
「わかりません。博多湾に入って来てから、二、三日して上陸になり、それからですよ。しかもここは送り出しの仕事をしていますから、なおさらわかりません」
ひどく素っ気ない返事に、カズ代は気分を害されたように顔をしかめた。
「ちょっとすみません、いま名前は何と言われました?」
横にいた別の男性が訊いた。
「二日市の長谷辺ですが……」
「ひょっとすると……」
カズ代の後ろに立っていた京淑に手を差し伸べるようにして男性は続けた。
「あなたは六月頃、わたしを訪ねて小倉まで来ませんでしたか?」
「…………」
京淑は男性の顔をまじまじと見て答えた。
「小倉へ行きました」
「そのときの宋(ソン)です、山村です。あなたは李瑛根さんの消息を聞きに来たでしょう。たしか長谷辺さんと記憶していますが」
「ソです、父の、アボジのことを……小倉へ行きました」
慌てた京淑は途中から朝鮮語になっていた。
「ちょっとこっちへ来て」
宋は二人を別の机の前にひっぱり、日本語でゆっくりした口調で話し始めた。
「まさかと思うけど、こんなこともあるんだ」宋は一呼吸して続けた。「あなたのアボジが、十日ばかり前にここに来たよ。あなたのこと、知っていることを全部話した」
「まさか! 空襲で死んだのでは? いま何処にいますか? 何をしていますか?」
京淑は朝鮮語で矢継ぎ早にまくし立てていた。
「まあ、落ち着きなさい」
「何処にいるのです?」
カズ代が京淑と同じことを訊いた。
「六月の空襲で焼け出され、いまは筑前前原の知人の家に間借りしていると言っていた。住所までは聞かなかったよ」
「連絡する方法はないのですか?」
「ないけど、朝鮮に帰りたいと言っていたから、またここへ来ると思う。身辺整理しているのじゃないかね」
「今度来たら、わたしに必ず連絡してくれるように伝えてもらえませんか。是非ともお願いします。この子は父親を捜すために日本へ来たようなものなんです」
「わかりました。わたしは興生会の世話役をしていますから、当分はここにいます。こんど李さんが来たら必ず」
カズ代は電話を取り次いでくれる近所の米屋の電話番号を書いて、宋に手渡した。
カズ代と京淑は、朝鮮からの引揚船の予定を知るために歩き回ったが、何一つ正確な情報を得ることができなかった。
あの空襲でアボジは死んでしまったと悲嘆に暮れながらも、確かに死んだという痕跡もなかったが生きているという証しも見出せなかった。それが違う目的で訪ねた博多港で、アボジが手の届くようなところに生きていることがわかった。一時は、アボジの身代わりになってこの子を授かったと思っていたのに、二人とも元気だ、こんなに嬉しいことがあっていいものかと、京淑は膨らみはじめたお腹にそっと手をあてていた。こんなに満ち足りた気分に浸ることができる、その始まりにはいつも義母がいた。日本に呼んでくれたのも、今日博多港へ行こうと発案したのもすべて義母のカズ代なのだ。京淑にとっては幸福をもたらす神みたいな人、いやそれ以上の人だ。
「義母さん、この世には神様はいるのですね。祈っていれば昌子ちゃんたちも無事に帰ってきますよ」
「そうだね、神様はいるのかもしれないね。今日はほんとによかった。あなたを福岡に連れて来て正解だったとしみじみ思ったよ」
「正解は何ですか?」
「間違っていなかったってこと」
カズ代と京淑は顔を見合わせてこぼれるような笑顔になった。
「筑前前原は遠いですか?」
「あなたいまから前原へ行こうというんじゃないだろうね?」
「ソです」
思いついたら即行動は、二人に共通の性分、互いに仕方ないねえという顔をして目と目が笑っていた。
「あなたは正直だね。でも今日はよしましょう。正行にも相談してからにしよう」
「ソですか、わかりました」
京淑は不服そうに言ったが晴れ晴れとした表情をしていた。
博多駅への帰路、カズ代が思いつきで突拍子もないことを言い出した。
「淑子さん、カフィとラムネ飲むところはないかねえ?」
カズ代の場違いな一言に京淑は噴出しそうになった。
「飲み物どころか、家もない焼け野原ですよ」
博多駅そばまで来ると、アメリカ進駐軍の兵士たちがジープの周りにたむろしていた。
「そうだ、アメリカ人ならカフィがどこで手に入るか知っとるかもしれんね。訊いてみよう」
「義母さん、それは危ないよ、怖いよ」
「怖くなんかないよ、平気平気。わたしの英語が通じるかな? あれはアーミーだね」
物怖じしないカズ代は、アメリカ兵に近づき話しかけた。
日本人の年寄りがアメリカ兵と話す様子に、驚異の目をして、近くにいた人々が遠巻きにしている。
立ち話したカズ代は、にこにこしながら戻って来ると京淑に言った。
「板付飛行場のアメリカ軍売店にカフィ売っているらしいよ」
京淑以上に自分の胸の内を隠すことができないカズ代は、いまにもそこまで行きそうな表情をしていた。
こすもぽりたん残夢(2)へつづく